1-08 purple perplex
黒羽迅・赤坂翔太・エミリーが駅へと辿り着いてからしばらく経った頃、舞台は寝静まった住宅街のとある一軒の家に移る。
その家の二階の真っ暗な部屋が、突如として白い光で満ちる。彼の自室に設置されたゲーミング用ディスプレイの光だ。
「っ、わ…眩し…」
堪らずシウこと碓井知生はそう零した。
「フユキも何だってこんな時間に急に集合とか言い出すんだろ…妹がいる俺の身にもなってよ」
就寝しているであろう家族を起こさないように小声で文句を言いながら、知生はディスプレイに表示された入力エリアにぽちぽちと文字を入力していく。そう、彼が弄っているのはパーソナルコンピューターだ。
知生の自室には、勉強机とは名ばかりのパソコン―――デスクトップで、処理落ちや熱暴走などを極力避け、快適に動作するように知生がセッティングしたもの―――の置かれた机がある。椅子はアーロンチェアで、長時間のデスクワークでも身体に負担がかかりにくいようになっている。ゲーム廃人にとってはまさしく最高の環境と言えよう。
「こんな視界の悪い状態でやれっていうの?絶対無理だって…端末に移植した状態よりスコアが落ちるだろ…フユキのバカ…あとで文句言ってやる…」
フユキというのは、彼の友人:六刻冬也の渾名を兼ねたハンドルネームだ。彼はぶつぶつと呟きながらヘッドセットを装着し、ブラウザを立ち上げて、オンラインゲームにログインする。
〈Welcome to "Planets Dream"〉
Planets Dream(夢みる星々)―――それが彼と冬也の心酔するゲームの名だった。そしてゲームの制作会社は、
〈Copyright 20XX Mutsuki Co. ,Ltd〉
「…ムツキ、コーポレーション。フユキのお父さん、本当にすごい人なんだな…」
冬也の父親が経営する株式会社、ムツキコーポレーションである。父親の作ったゲームで遊ぶ子供の心情というのは一体如何なるものであろうか。あまりにも現実味が無さすぎて、知生には皆目検討がつかない。
〈シウ さん、こんばんは。〉
〈あなたは 約5時間前 に本ゲームをプレイしています〉
「ご丁寧にありがとうございます」
独り言、ため息。
〈!注意勧告!〉
「…何」
〈現在一部のシステムに不具合が発生している模様です。
通常通り本ゲームのプレイは可能ですが、
重篤なエラーが発生する可能性があります。
現在原因を究明中ですので、復旧まで今しばらくお待ちください。
ご迷惑をお掛け致します。〉
「…不具合?」
知生はこのゲームを四年間に渡ってプレイしてきたが、今までにこのような事態に巻き込まれたことはない。どう足掻いてもゲームには何かしらのバグが存在するものだろうが、四年間の間に出会わなかったのは偶然なのだろうか。それとも、認知していないだけで今までにも幾度か起こってきた事なのだろうか。とにかく詳細など知り得ないが、少なくともこの事実を本ゲームの開発者を親に持つ冬也が認知していないはずはないと思われる。
「なんか読めた気がする…」
はあ、とじっとりとした溜め息を吐いていると、ログインしてきた自分に対してユーザーが挨拶を交わしてきた。
『シウさんこんばんはー』
『シウだー!こんばんは』
『ばんわー!』
「ふー…」
軽快なタイプ音。エンターキーを押す、カタンという音。
『ばんわー!夜遅くにお疲れ様ッス!』
打ち出されたコメントは、異様なまでにハイテンションな挨拶だ。物腰穏やかな彼の性格とまるで対照的なこの口調は、彼が中学時代に読んでいた漫画に登場する男のキャラクターの台詞を必死に覚えて研究して作り上げたものであり、決して普段の生活で使われることはない。長期にわたって使い続けたおかげで、オンライン上で現実世界と全く別の人格を形成することに成功したらしい。
彼のアカウント『シウ』は、Planets Dreamの中でもかなりのハイスコアプレイヤーとして名を馳せている。掲示板等に専用のスレッドが存在する程の知名度を誇っているが、それらの大半で『シウ』は『やたらテンション高いキ○ガイ』『暴走癖がある』などと称されている。実際のところ彼はゲームをほぼ無心に近い状態でおこなっており、暴走などした事はない。『プラドリランカーwiki』の記事にもかなり言葉遣いの荒い台詞が乱立するが、その全ては演技だ。仮にオフ会に誘われたとしたら、インターネットの人間たちは恐らくリアルとインターネットの乖離ぶりにドン引きだ。そんなイベント、一秒も経たずに願い下げである。
「立ち上げとくの忘れた」
そんな事情もあり、知生が冬也と共にプレイするときは同時に音声チャットを立ち上げておく。冬也は知生がオンライン上で演技しているのを知っているが、普段と違う口調で冬也と喋るのは憚られるため、毎回ゲーム上とは別に音声チャットで会話するようにお願いをしているのだ。
「この数分で一体俺はいくつのサービスにログインしてるんだろう」
再び独り言をついたのち、音声チャットのアカウントにログインする。流石にチャットのアカウントの名前はシウではない。仮に名前をシウにしたとして、膨大な数のゲームユーザーに検索でもされたら、ストーカー被害だの何だの、平穏な日常生活が滅茶苦茶になるだろう。
「よし、…」
「おそ――い!」
突如耳元に大声が響く。どうやらチャットが開通したらしい、ヘッドホンから流れてきたのはまさしく六刻冬也その人の声だった。
「ちょ、バカ、大声出さないでよ…!」
反して声量を抑えた声で知生は応じた。
「シウちゃあ〜ん、待ちくたびれたぜ、おっせぇんだよ!しかし待ち侘びた甲斐があるってもんだ、深夜にまでシウの声が聴けるだなんて俺はなんと幸せな…」
「…き、気持ち悪…」
「言い過ぎた。許して」
ナッハッハ、とヘッドホンの向こうで冬也が大声で笑うが、その笑いを一気に封じ込めて、突如として彼の声は真剣な声色に変わる。
「…で、だ。シウ、大事な睡眠時間を奪ってまで協力してほしい俺の用件が何だか、察しがついてるか?」
「…不具合関連だとは思ってる。通知が来てたし」
「ハッハ、ご名答」
冬也がヘッドホン越しに低く笑う。
「被害者のアカウントは跡形もなく消し飛んでて、ログを遡ろうにもその履歴すら抹消されてて叶わない状態らしい。被害が出てから何時間も経ってないからな、被害者が少ない分どんな被害状況かも分からねえ。生憎被害者のSNSのアカウントは割り出せなかった。どっかしらで文句は言ってるんだろうがヒットしてこない。そこで、だ」
「…俺と一緒に歩き回って、巻き込まれない程度に探せって?」
「そゆこと。君みたいな察しの良い男の子、俺、大好きだよ」
話の途中で唐突に口説かれ、思わず顔をしかめた。何をふざけているのやら。
「…うん、じゃあ、森んとこに集合しよう」
「おぉい、大好きって言ってんだから少しは反応してくれても良いじゃんか」
「……んん、もう、分かった!分かったから!ありがとうフユキ、早くしよう」
「おっけ!」
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Planets Dreamというゲームは、インターネット上でアバターを介してリアルタイムにチャットを行いながら、サーバーに用意された様々なエリア…架空の惑星を駆け巡り、エンカウントしたモンスターをユーザー同士が協力して倒したり、そのユーザー間で戦闘を行ったり、その他ユーザー全体に課されるタイムアタックなどの課題に挑戦するなど、比較的自由度の高いオンラインゲームである。
ギルドを組んで結託する者も居るが、冬也と知生はたった二人で戦場を駆け巡っている。何故なら、お互い強すぎるのでたった二人でも大抵のことは何とかなってしまうからだ。中学の頃は知生も大きめのギルドに所属していたものだったが、高一のときに知り合った冬也に「雑魚と馴れ合って埋もれてんなよお前、この広いインターネットの海、ガンガン荒らしてこうぜえ!」と煽られ(脅され)、ギルドを離脱して彼と共に行動するようになった。
そう、冬也と知生が知り合ったのはリアルの世界であり、インターネットの世界ではない。初めて出会ったときに同じゲームをやっているというだけで意気投合―――フユキの側から強引に―――し、お互い今まで以上に様々なゲームにのめり込んでいって、今の二人が居る。
「でさぁ」
音声チャットを介して、知生。
「どういう種類の不具合なの」
『夜プラドリなう〜★☆★』
その落ち着いた―――或いは、単に眠気のせいで気怠げな―――声色とは真逆の、活力に溢れたコメントを画面に打ち出す。
「噂だとレベル設定だかヒットポイントがバカみてえに高いモンスターが出現するエリアがあるらしくて、そこに巻き込まれた奴は抜け出すことも叶わず、アイテム供給もできないままヒットポイントを削られ、問答無用でエネミーに戦闘不能にさせられるんだと」
聞いてみればなかなかの重篤な被害だったが、冬也は規模感に削ぐわぬ淡々とした様子で言葉を連ねた。
「で、そのエリア自体が変だから、通常の復活ができなくなってアカウントが抹消されるってこと?」
「ってことかな」
『ちょっ、またオフの話っすか!勘弁して下さいよwww』
冬也もまた、落ち着いた声色で話しながら宛ら真っ昼間の談笑のようなテンションの文章を打ち出している。…って、何だ。オフの話って。聞いてないんだけど。
「……オフ会なんて聞いてないとか考えてたりする?」
そう思っていた矢先に冬也にヘッドホン越しに図星を指され、そんなわけ、と知生は慌てて否定する。
「いつもの奴らだよ。大丈夫。シウというものがありながら、俺が訳の分からん有象無象に会いに行くわけないだろ」
冬也は軽く笑い飛ばしながら、『またそれっぽい機会があったらお願いしますね』などと立ち回っている。インターネット八方美人だ。
「さっき、プラドリの不具合のことがニュースのトピックに上がったんだ」
ふと、冬也が低く静かに零した。
「株式上場して間もない会社だ、これ以上の痛手は負わせない」
「う、うん…」
ゲームの世界で歩き回っている最中だというのに、突然現実的な話題が出て思わず知生は面食らう。
知生が思うに六刻冬也は、恐らくとても頭が切れる男だ。
人間なら誰しも携えている脳という組織の、偏差値や学力という尺度では推し量れない、誰も気付いていない領域にアクセスできるのではと信じてやまない。今ヘッドホンの向こうでへらへらとしているように人間らしい面を見せつつ、明らかにその人間らしい面とは別の場所から言語を発しているような瞬間がある。
斜め上の視点から物事を俯瞰してみたり、一体何処から仕入れたんだというような謎の知識を語るなど、そういう瞬間の冬也はまるで人間でないような雰囲気を醸し出している。といっても、人間離れした冬也は日々重ねている日常会話の中で稀に顔を覗かせる程度で、ほとんどお目にかかったことがない。きっとまだ、冬也の中に何かが隠れているのだろう。その不可侵なミステリアスさに惹かれている―――ような気がする。もちろん、この感情は直接どころかチャットでも伝えたことはない。
「そういや、アレ、聞いたかよ」
「雑すぎ、もう少し丁寧にお願い」
「キヅキさんが復活したとかいう噂、聞いた?」
「っ、え、…は、何それ!?」
ボイスチャットの向こうの冬也の発言に、知生は深夜なのも構わず声を荒げてしまった。そんな自分を戒めるように、誰に叱られたわけでもないが一呼吸おいてから咳払いをする。
「そこら中のエリアでみんなが喋ってる。一応根拠もあって、あの人最終ログイン日時が表示されるように設定してるじゃんか。一年前の冬で止まってたそれが最近の日付に変わってたんだって」
「……いや、それこそ、不具合か何かじゃないの…」
「それが何日経っても修正されないんだよ。日付表示って狂ったりしても次にログインした時には大抵直ってるけれど、うんともすんともだ」
「……」
『おひけえなすって!』
会話の途中で冬也がフユキの名を借りて、唐突にモンスターとの戦闘に苦戦していたらしいユーザーの中に割って入っていった。僅かな時間のうちにバッサバッサと装備している大剣で小さい敵を切り刻み、回復弾をダメージを負っている者に撃ちまくり、強大なモンスター相手に舞うように攻撃を仕掛けた。無駄のない、美しい立ち回りだ。
「はっはっは〜」
などと笑いながら、ガチャガチャというコントローラーの音を響かせ、陽気に。
『早速のお控えあんがとさんでござんす、手前、生まれも育ちもプラドリ、名はフユキで御座います』
画面の中でフユキは全て一人でモンスターを片付けてしまったあと、何故か仁義を切るだけ切ってシウの方へ戻ってきた。
「好きだぜ、旅を始めたばかりの奴等が、最初のモンスターに手こずってまごついてる、先行きの見えない感じ」
ハハハ、と軽く笑いながら、冬也はそう言った。知生も始めたての頃は、何度か上級者のユーザーに助けてもらったことがある。勿論その救世主の顔など見たことがないが、冬也のような物好きが助けてくれたのだろうか。
「…と、いうわけ。アツいよな、キヅキさん自身が帰ってきたのか、それとも、そうじゃないのかは知らねえけど」
冬也はキヅキというプレイヤーについての噂を、そう締めくくった。
「…あの人、チャット履歴の様子から見ても、もう亡くなってしまったとしか思えない。病気だったなんて噂もあるし」
「有力な説だな。でも俺達はキヅキさんと知り合いでも何でもないし、ましてや顔だって見たことがない。死人だとしたら、口なしだ。真実を知る術はね〜えよ〜」
ヘッドホンの向こうから、ギィイ、というキャスター付き椅子の背もたれが軋むような音がした。伸びでもしたのだろう。
「まぁ会ってはみたかったけどな。あんな頭おかしいプレイスタイルする奴の顔が見てみたかった」
「…そうだね」
知生は低く、応える。
その昔、Planets Dreamにはキヅキというプレイヤーが居た。彼―――現実世界の性別はさておき、少なくともインターネット上のアバターのそれは男性だった―――は唐突に戦闘の場に現れては敵をその華麗な攻撃で翻弄し、本当に常人と同じ端末でプレイしているのかと言わんばかりの軽快な動作を以てフィールドを駆け抜けた、全国的に名を馳せたプレイヤーだった。ところが、彼は当時クリアが大変困難とされていた、プレイヤーに共通に課されるレベル99のクエストを初めてクリアし、100に挑戦しようかというところで突如として煙のように姿を消してしまったのだ。
彼の失踪は、当初から現役だったプレイヤーにとっては衝撃的なニュースだった。誰もが目標として崇めていた、謂わば神のような存在が、唐突に消えてしまったからだ。それも、このゲームにおける最後の目標を達成できるかできないか、というゲーマーが離脱するには一番有り得ない局面で。
はじめはどんなプレイヤーも、プレイしているハードの故障だとか転地だとか、のっぴきならぬ事情で一時的にゲームの世界から離脱しているだけだろうと信じて疑わなかったが、彼は一年経っても帰ってこなかった。そのうち、彼の残したチャットの履歴から、「明日になって急に消えるかもしれません」「限られた時間でログインしてますからね」などといった不穏なメッセージが発掘され、彼の死がまことしやかにインターネットの海で囁かれ始めたのだ。
その、キヅキがログインしている…生きている。これは、本ゲームのユーザーにとってとんでもないニュースなのである。
「まぁ、実際のところは乗っ取り説濃厚。みんなのキヅキ-Lv.99(レベルナインティナイン)だ、そのパスワードだって大人気だろうし。というか、そう信じてないとやってられねえさ」
「……」
「過度に期待して、それが偽りだったとき、人は絶望すんだよ。俺そういうの嫌いだからさぁ」
冬也はため息をついた。二人のアバターは同じ方向を向いて、プレイヤーもまばらな場所を探索している。
「…そう、なのかな」
と、同じく静かに知生。
「シウだって、例えば夕飯がハンバーグって親から言われてたのに家に帰ってみたら出てきたのがカップラーメンだったらどうするよ?がっかりするだろ」
「なるほどね…でも流石に例えが極端かな…」
テレレン、という軽い効果音と共に、シウのアバターが道端でヒットポイント回復系の食材を手に入れている。
「俺、カップラーメンなら塩一択なんだよね。あんまり外れがないからさ」
何故かラーメンの味の話を始める冬也。彼は自分で広げた真面目な話を流すとき突拍子もない話を始める癖があるのだが、知生はそれを直接指摘したことはない。
知生がラーメンの味について考え始めるか否かという時、突如それは発生した。
「ひっ!?」
「っお?」
知生が悲鳴を上げるのとほぼ同時に冬也が間抜けな声を出した。
まるで電源が落ちるかのごとく、プレイ画面が暗転したのだ。
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「ハッハァ!来やがったな!」
冬也は自室のデスクを引っぱたき、そう叫んだ。知生に大声を出さないでとヘッドホンの向こうからたしなめられた気がするが、彼はそっちのけでディスプレイに貼り付いた。
その瞳は深夜にも関わらず白昼のサバンナで獲物を狙う猛獣のようにギラついており、ぜってえ逃がすかよ、と知生に聞こえないように声を出さずに口だけ動かす。
こんな夜遅くに、冬也が知生を呼びつけてバグを求めて三千里した理由など他でもない。このゲームの開発者である父のためというのも嘘ではないが、そんなことよりも、「通常では有り得ないほど強いものと戦いたいから」という純粋すぎる欲望の方が圧倒的に勝っていたのだ。
冬也は、現在のネットゲーム生活に十分満足していた。知生、いやシウと共にインターネットではある程度の名声も得たし、彼の手にかかればゲーム内で倒せないものはないどころか、彼がかつて憧れてやまなかったキヅキとほとんど同じ土俵に上りつつあったのだ。
ゲームプレイに関してセンスがない方ではないだろうと自負している冬也だが、そのセンスは一体このゲームの何処まで通用するのだろうか、という際限のない興味が彼の中で沸き立って止まらなくなっていた。やがて果ての領域に到達したとき、『このゲームが一番上手い人間』になったとき、自分が目の当たりにするものは何なのか―――ゲームが作られた意味と、プレイヤーである自分に向けられた開発者の意図を、果たして理解することができるのか。
そしてそんな冬也に、強大なバグエネミーによるユーザーの蹂躙事件が突如舞い込んだ。
被害者のユーザーはエネミーに敗北したために、バグの発生しているエリアでのコンティニューが通常通りに行えずにアカウントが消し飛んでしまったが、勝利さえしてしまえばコンティニューの処理は行わずに引き続きそのエリアに残留できるので、あとはその状態でプログラムによる救出を待てば良い。コンティニューせずにアカウントさえ動いていればゲームデータを消し飛ばされることはない…というのが、冬也の算段である。
「…勝ちゃあ良いんだよ」
自分の声だけをミュートにして、知生に聞こえないように、冬也は口の端を吊り上げる。
「こ、こんな急に巻き込まれるものなの!?」
冬也とは対照的に、知生がヘッドホンの向こうで分かりやすいほど狼狽している。冬也はミュートを解除して、
「良いかシウ、ぜってえ強制終了とかログアウトとかするなよ」
と語りかけた。そんなこと分かってるけどさ、と知生が声を上擦らせて応える。
二人のアバターは、エリア名が「Unknown」と記された真っ暗な空間に浮かんだような状態で佇んでいた。
〈Enemy!!〉
「フユキっ、来た!」
「おう」
画面の右奥に、エネミーの存在を指し示す矢印が表示された。冬也はコントローラーを握りしめながらそこを注視するが、背景が薄暗いせいでうまく確認できない。
「腕…?と足か」
本来なら大型モンスターであろう『それ』は、腕と足の部分だけ荒いグラフィックが現れており、静かにそこに佇んでいた。
「ドラゴン系の新しいモンスターでも実装するつもりだったんだな」
「…じゃあこれは、仮実装のグラフィックとエリアなんだ」
「そういうこと!」
冬也は応えると、スティックを右上に向かって思い切り倒す。画面内のフユキは戦闘モードに入り、吹き抜ける風のようにモンスターの方へと駆け出していった。それに呼応するように冬也は口の端を吊り上げて不敵に笑い、「ファーストアタックは貰った!」と側方から攻撃を仕掛ける。
「まっ、て」
耳元で知生の声が聞こえる。シウがフユキの後を追いかけるように駆け出し、防御力を上げる魔法をフユキに向かって撃つ。
《 Nidhogg 》
「…ニーズホッグ…?」
知生がそう読み上げるとおり、モンスター名が表示された。そんなものに構っていられるか、と言わんばかりに、冬也は怒濤の勢いで大剣による攻撃を加えていく。血中酸素濃度の低下や筋肉の疲労を考慮しない、現実世界では到底再現不可能な、緩急のない攻撃がボタンの連打によって繰り出される。
ニーズホッグ―――腕と足は表示され続けているが、時折全身がしっかりと表示される―――は、フユキの攻撃に対し画面内で凄まじい咆哮を上げ、鈍重ながらも力強い腕の一振りで彼を払おうとした。
「重量には速さで勝ァつ!」
冬也はアバターを繰り、二発の打撃ののち後ろに飛び退くというヒットアンドアウェイを狙うルーティンに入った。ニーズホッグの腕はフユキの位置を認識しており、彼が元居た場所を的確に狙ってきている。恐らく一発その攻撃に巻き込まれれば、かなりのヒットポイントを削られるだろう。
「ゲージ重っ…」
知生が引き気味に、ニーズホッグのヒットポイント量を評価する。ニーズホッグの体力を示すバーはフユキの攻撃の甲斐も無く、全くと言って良いほど動きがない。一体どんな攻撃なら良いのだとコントローラーを投げたくなるような屈強さである。
「良いねえ。長期戦、久しくやってないよ」
冬也は半ば冗談めかしながら、今後待ち受けているであろう長い戦闘を予期して嗤う。
「よっしゃ!シウ、いっちょ気合い入れてこうぜぇ!」
「うん…!」
マイク越しに知生を鼓舞して、暗い暗い部屋で、殊更に真っ暗な世界を映すディスプレイを見つめながら、冬也はスティックとボタンを軽快に捌くのだった。