あa

2-01 留学生、来たりて

「ふぁ~~あ…」
頭上に果てなく広がる夏色の空を背に、黒羽迅は自転車の上で躊躇いのない盛大な欠伸をした。早朝にも関わらず既に熱を纏った大気の中に、ぽつりと少年の呼気が混ざり込む。
昨日のことだ、琉晴学園の長い長い夏休みが終わったのは。否、終わってしまった。高校生活で三回しかない貴重な夏休みが、また一つ終わってしまった。
休みが幕を開けた瞬間からスタートダッシュを切るが如くに全力で自堕落な生活を送ってきた学生には、本日の登校が堪えるだろう。エアコンでキンキンに冷やされた部屋で殊更にキンキンに冷やされたアイスを食らって、学校の宿題を部屋の隅に溜めるだけ溜め、それらと目が合い慌てて取り掛かり、今頃寝不足のピークなのだろうから。きっと今日校内ですれ違う誰もがうだうだとそのことについて文句を言っているのだろうと迅は思った。
迅の場合は毎日陸上部の練習に参加し、直射日光で燃え盛る校庭を走り続けていたらいつのまにか夏休みが終わってしまっていた。短距離と走り幅跳びの練習を行ったり来たりして、日焼け止めを塗り忘れた肌を焼くだけ焼き、ひりつきと火照りに耐えているうちに八月が終わってしまった。まるで己の脚が遂に時空さえも飛び越えたのかと錯覚するほどに、例年にも増して刹那的な夏休みだった。
昨年度のことを思えば、時間を忘れるほど走り回れるのは幸せなことだ。怪我で走れず、怪我が治っても走れず、淀んだ心を携えたまま灰色の一年を過ごすことしかできなかったあの頃に比べれば、風のように一瞬で吹き抜けてしまった儚い夏休みなど惜しくないと迅は思う。

琉晴学園の正門に辿り着くと、迅は器用にも両手を制服のズボンのポケットに突っ込んだ状態で自転車を漕ぎ、もうすっかり停め慣れた自分の自転車置き場を目指して進む。
夏休みならばそのまま校庭へと向かうところだが、今日は二学期最初の登校日だ。迅は下駄箱の方へと歩を進めた。

「お」
今まさに下駄箱の前で靴を脱ごうとしていた生徒の姿を認める。
「あ」
その声に気付いたらしい生徒は、迅の方を振り返った。
「わあ、迅じゃないか~!」
「やっぱり翔太か」
こんな早い時間に登校してくる生徒など、自分以外に赤坂翔太くらいしか居ないだろうと迅は勘ぐっていたが、案の定だった。翔太はトレードマークである赤いセーター…ではなく、半袖のワイシャツ姿でにこにこと笑いながら手を振っている。彼は迅が陸上部と兼部しているサークル:天候観測隊の代表を務めている、宇宙と星をこよなく愛する男だ。
「元気してた?」
「うん。元気も元気、ここのところは毎週近くの山まで自転車で行って天の川を眺めてたんだ」
「や、…山?山まで自転車で行ったの?どんな脚してんだよ、ロードレーサーかよ」
「うん、ロードバイクに乗ってね~」
「マジでロードバイクに乗ってるんだ…」
履き慣れてしんなりとした上履きをぺたぺたと鳴らして階段を一段一段上りながら、他愛のない話を繰り広げる。しばらく見ない間にずいぶん焦げたねとか、焦げたって何だよ焼けたって言えよ、とか。
「そういえばあの後結局シウくんとも連絡を取って、天候観測隊のサイトが完成したんだよ」
いつしか話題は夏休み中の天候観測隊の活動に移っていた。器用なもので、翔太は片手で携帯端末を操作すると、表示された画面を迅に見せてくれた。

【琉晴学園公認サークル 天候観測隊】
―――当サークルは高校生に出来る範囲で温度・湿度等を観測し、天気予報を試みることを目的に活動しています。
・最近の観測結果
・ブログ
……

晴天を求めて活動する隊らしく、透き通った青空を彷彿とさせるクリアな水色の背景をあしらっていた。どこから拝借したのだろう、見たことのないポップなフォントでサークル名が記載されている。
「すげえ!何もできなくてごめんな、本当にありがとう」
「えっへん!エミリーと白和泉さんも手伝ってくれたお陰でポップで可愛い色に仕上がったよ。…というか、迅が忙しいからってウェブ会議形式を採用したのに、まさか迅がビデオ通話もできないほどの機械音痴だとは思わなかったよ」
「うう、ごめんって…」
「良いんだ。それよりも、毎日部活お疲れ様」
「ありがとな」
二人は階段を上りきってしまうと、D組へと続く廊下を歩み始めた。
「翔太は、相変わらずだな」
迅は翔太のリュックに刺さっていた木製の棒―――恐らく、星釣りに用いる釣り竿だ―――を認めて笑った。翔太はああ、これね、と顧みる。
「夏場は湿度が高くて夜空がもくもくしてるから、星の声が聞こえにくいんだよ。アルタイルさんったら全然僕に応えてくれないんだ」
「そうなのか。翔太の声が聞こえないと鷲さんも寂しいだろうに」
翔太は星釣り―――彼曰く無数の星が瞬く夜空の下で釣り竿に括り付けた仕掛けを投げ、星と会話することを指すらしい―――という一風変わった趣味を持っている。恒星を釣ろうとしてしまうほどの天体フリークと一学期の間中つるんでおきながら、アルタイルって何のことだっけ、などと野暮なことは問わなかった。わし座のアルファ星のことだ。
これまで特に意識せずに夜空を見上げていた迅も、今となっては翔太の指導の甲斐あって、アルタイルに加え、デネブ、ベガと、夏の夜空を彩る三角形をすらすらと描くことができるようになった。
「迅が覚えててくれて嬉しいよ」
「そりゃまぁ、翔太先生のご教授のお陰ってやつ?」
などと談笑しながらD組の扉を開けると、
「あ」
「あれっ」
女子生徒の先客が居た。女子生徒は長いブロンドのストレートヘアを窓から覗く眩い朝日に透かしながら、眼鏡の奥のガラス玉のような瞳で、ちらりと迅と翔太の方を見遣る。彼女は、
「エミリー!おはよう、今日はめちゃくちゃ早いな」
D組に在籍している留学生であるエミリー・青葛・クロウフットだった。どうやら本を読んでいたらしい。
「迅君、赤坂君、おはようございます。新学期の私は早いのです」
イチバンノリ、えっへん、と宛ら翔太のそれのように胸に握った拳を当てて誇らしげにしながら、全く抑揚の無い無機質な声でもってエミリーが告げた。
「エミリーも今晩の星空コンディションの確認に来たの?」
翔太が窓の向こうに広がる青空を指差しながら問うたが、いえ、そういうわけでは、と再び無機質な返答が寄越された。
エミリーは、感情の抑揚が表情や声に全く表れない少女だ。そもそも彼女の感情に抑揚があるのかすら疑問だが、とにかく無表情・無機質な少女、無機物少女である―――というのが巷の彼女に対するイメージだ。しかしエミリーは、微笑む。微笑むどころか破顔し、悲しみ、ときに怒ることさえある―――
「…君、迅君」
そのエミリーに名前を呼ばれていたらしい。ごめん、なんだって、と迅が聞き返すと、
「迅君は、今朝もランニングですか」
寄せては返す穏やかな波打ち際の泡沫のような声でもって、エミリーが再び問うた。
「おう。そんなとこだな。あとは…」
迅は翔太とエミリーを交互に見遣ると、
「久しぶりに友達に会えるんで、楽しみだったってのもある」
と、照れくさそうに笑ってみせた。
「いやあ、嬉しいなぁ」
翔太は破顔し、
「喜びヒツゼツに尽くしがたいとはこのことです」
エミリーは無表情で、その喜びを伝えた。
「翔太は天気の確認に来たとして…エミリーは、今朝はどうして?」
迅が問うと、エミリーはケサハドウシテ?と反芻しながら首を傾げていたが、『今朝はどうしてこんなに早く来たの』という意味であることに気付いたらしく、ああと声を上げた。
「迅君と同じです。私も、皆さんに早くお会いしたくて」
エミリーは固まった表情のまま二つの手のひらを合わせて、両手と同期して小首を傾げる。可愛らしい動作に表情が伴っていないのは、いつものことだ。
「やだなあ、僕だっていつも通り早いかもしれないけど、みんなに会いたい気持ちで来たんだよ」
翔太も続いて、困ったような顔で腰に手を当てて訴えた。悪い悪い、と迅。クラスメイトとの再会が待ち遠しいのも長期休み明けならではだろう。
「じゃあ、ランニングに行ってくるよ。またホームルームの前にな。もし侑斗が来たら、俺はランニングに行ったって伝えてやってくれ」
迅は運動着をバッグにてきぱきと詰めると、ひらひらと手を振った。
「頑張って~」
「ではまた」
翔太とエミリーが手を振り返すのを背中越しに見遣りながら、迅は教室を出て行った。


――


「おはよう!お前ら、風邪引いたりしてないか?夏風邪引く奴は馬鹿って言うけど、俺は冷房の当たりすぎでちょっと調子が悪くなったりしたぞ」
D組の担任である杉本裕行が、豪快に笑いながらホームルームを開始した。杉本は人柄も良く、その若さと整った顔と爽やかさ故に生徒からの人気が高い。
「だが直後に琉晴のカップルを見かけて、情報供給に俺の胸は躍った!お陰ですっかり元気になったんだ。ははは」
爽やかで取り入りやすいだけなら良いのだが、彼は筋金入りのデータ狂である。学生を密かに観察しては行動記録・趣味などを自前のノートに事細かに書き込むという変質者のような一面を持ち合わせており、生徒はもちろんのこと、教員からも苦い顔をされている。現に迅は乾いた笑いを零しているし、クラスメイトの中から「やめてくださーい」と声が上がった。杉本は冗談だよ、と明らかに冗談ではなさそうだったが流してしまうと、
「今日から二学期だけれど、長期休み明けは気も緩むし、気持ちが辛くなることもあるかもしれない。何かあったら俺に相談に来てくれても構わないし、言いにくければ他の先生に相談に行くようにするんだぞ」
と、突然真面目な顔になって諭した。ギャップ萌えという言葉があるくらいだ、女の子は男性のこういうギャップがたまらないのだろうか。迅はふと隣に座っているエミリーのことを見遣ったが、エミリーはいつも通りカチコチの無表情だ。
それからもう一つ重要なお知らせが、と杉本が人差し指を立てて注目を促す。
「実は今学期からもう一人、イギリスの学生を留学生として迎えることになった。急で申し訳ないけど、ついこの前決定したことなんでな」
イギリス出身っていうと青葛と一緒だな、と杉本がD組の面々に微笑みかけて―――待てよ、今彼は何と言った?
「更に急で申し訳ないんだが、今日がその生徒の登校初日なんだ。というわけでホームルームが終わったら、ちょっくら行ってくるぜ」
杉本がウインクで星を飛ばすのとほとんど時を同じくして、彼を呼び出す旨の校内放送が鳴り響いた。じゃ、と軽く挨拶を残して、杉本は呆気なく教室を立ち去った。
しばしの沈黙。留学生?もう一人?イギリスの学生?D組の面々は杉本の台詞を頭の中で繰り返したのち、はっと答えに思い当たると、担任の消えた教室で一斉に悲鳴を上げた。


「俺たちのクラスはどうかしてる…」
転校生はどんな顔でどんな声で、と勝手なイメージを押し付ける喧噪の中で、迅の友人である降矢侑斗は苦い顔で呟いた。彼は迅の中学時代からの友人で、迅と共に陸上部に所属している。
「エミリーちゃんもいることだし、たとえ俺たちが英会話できなくても何とかなるだろうけど、グローバリゼーションの波はこの琉晴にも着実に近付いてるんだなぁ」
難解な単語を使えたせいか、侑斗は何やら満足げだ。
「二人目の留学生かあ。しかも、エミリーと同じイギリスの学生」
もしかしたら何か接点があったりしてね、と翔太は冗談めかして笑ったが、エミリーは何も伺っておりません、と首を横に振るばかりだった。
「アンタ達何も知らないのね、遅れてるわ」
そこへ呆れたようにため息をつきながら、髪を明るい茶色に染めた女子生徒が歩み寄った。
「おお、麻望。久しぶりだな」
「終業式ぶりかしらね」
彼女は白和泉麻望という。理屈はともかく天気を予知できるらしいので、それを売りに天候観測隊に入隊してきた女子生徒だ。翔太は彼女の高圧的な物言いを毛嫌いしているが、人手はないよりあった方が良いだろうという迅のフォローとも取るべき進言もあって隊員として迎えられた。
「イギリスの留学生、オトコよ。それも、俳優みたいにカッコいいの」
その吊り目をきゅっと細めながら、喧噪の中で聞き取れるぎりぎりの小さな声で、麻望は迅たちに囁いた。
「へえ。じゃあ遅れてる僕から質問させてもらうけど、何処で見たの?随分嘘くさいね」
「何よその言い方。何か文句でもあるわけ?」
半開きの眼で問う翔太に、麻望が噛み付いた。夏休みの間にほとぼりが冷めたかと思いきや、二人の仲は相変わらずのようだ。新学期早々喧嘩するのだけはやめてくれよ、と思わず苦い顔になる。
「友達と今朝登校してくるときに、黒い高級車を見かけたの。最初はこの子が乗ってるんだって思ってたんだけど」
この子、というところでエミリーの方を一瞥し、
「車から降りてきたのは若い外国人の男の人だった。それも、身長も鼻も高くて、体格もがっしりしたような。そのまま琉晴に入っていったから、あの人で間違いないと思う」
と続けた。麻望もまたエミリーに何も知らないのかと問うが、
「私の母国の知り合いは少ないですし、ましてや屈強な男性など、思い当たりません」
と、頑なに否定するのだった。

「俺、5分ぶりに参上!」
留学生の正体が不明である以上議論に着地点が見出せるはずもなく、問答はひたすらに踊り続けていた。そこへ杉本がふざけた台詞を携えてドアを開け放ちながら雪崩れ込むのを見るや否や、D組の面々は机や椅子を元の配置に戻しながら席に着いた。
「活発なディスカッション、大いに結構。会えるのが楽しみで仕方がないな?」
は、はあ、とタイミングのはっきりとしないあやふやな返事がそこかしこから鳴った。どうやら困惑しているのは迅の周囲だけではなかったようだ。それにしても、このクラスには随分簡単に生徒が増えてゆくなと思う。イレギュラーなメンバー加入に差し当たり、きっと見えないところで誰かが苦心をしているに違いないと迅は思った。少なくとも、三十代半ばに近い年齢で「俺参上」などとふざけた台詞を放ってみせるこの男の気苦労などほとんど無いに等しいのだろう、と壇上の杉本のことをじっとりと睨んでみる。
「青葛と同様日本に来て間もないので、不慣れな所もあるだろう。しっかり受け入れてやるように」
青葛、と名前が出たところで、隣の席の留学生一号のことを見遣る。学生用の椅子に、少女が背筋を真っ直ぐに伸ばして腰掛けているさまが映った。もうすっかり網膜に馴染んでしまったこの無機質な少女の佇まいも、D組に配属された直後は空っぽの席だった―――
ふと、エミリーの転入してこなかったもしもの日常のことを想起する。この席は夏が来てもずっと空っぽのままで、彩度のない灰色に支配された教室で塞ぎ込み、翔太に天候観測隊への加入を促されたとしても沈鬱な気分のままに拒否しているだろう。ということは隊の活動に赴くこともなく、公園で颯人と出会って己の過去を直視する未来には至らず、今頃アンニュイな溜め息をつきながら陸上に復帰できない自分を心の中で蔑んでいるのかも―――
そう思うと、この少女にはいずれ何らかの形で出会いに際してしっかりと感謝の意を伝えなければならない気がしてきた。あの日は海辺の立ち話がてら一言で済ませてしまったが、改めて場所を設けて礼を述べるべきだろう。いや、いくら感謝しているとはいえ流石にやりすぎだろうか…
「じゃあ早速、留学生を紹介するか」
迅の思考を余所に、入ってくれ、と杉本が促す。どうやら留学生二号の入場らしい。
応えるように新品の上履きの音―――はせず、代わりにゴト、という重厚なブーツの音が響いた。その靴音と共にドアの向こうから現れたのは、なんと深緑色の騎士服に身を包んだ異国のソードマンだった。ご丁寧に腰には巨大な騎士剣を下げており、金属が立てる微かな硬い音から察するにレプリカではなく真剣らしかった。

―――うわ、あ、

迅は驚きのあまり開いた口を塞げずにいた。一体何者だ、この男は。イギリスには登校初日に騎士服に身を包んで登場して爆笑を誘う儀礼でも存在するのか?いや、同国出身のエミリーは至って普通だった―――学校の壇上に騎士が佇んでいるこの光景を受け入れられない自分がおかしいのか?それともあの騎士の頭がおかしいのか?際限のない困惑のさなか、彼の服の深い緑が、襟や胸ポケットに添えられた赤のラインが、そして瞳の緑が、明滅するかの如く迅の脳に雪崩れ込む―――

「こちらが、俺達2年D組の一員として転入することになったエドワードだ」
杉本が留学生の名を告げたところで、迅は我に返った。みんな拍手、と杉本が促したので、弾かれたように壇上に向き直り、手のひらを合わせる。そこからはぱち、ぱち、と見計らうかのような音が各地から響いて、不自然なまでのタイムラグを経たのち、ようやくまとまった拍手が起こった。

杉本が自己紹介を促すと、エドワードと呼ばれた男は黒板に筆記体で名前を記し、その下に綺麗なカタカナで読み方を記した後、
「本日より琉晴学園第二学年Dクラスに編入させて頂く、エドワード・グリニッシュという者だ。エドとでも呼んで欲しい。ここ日本は僕にとって色々不馴れな所ではあるが、非常に興味深い土地でもあったので、是非ともこの国について学ばせて頂きたいと思い留学を決意した。どうかよろしく頼む」
と流暢な日本語でそう言って、一礼した。
そののち、やはりタイムラグを挟んで戸惑いがちな拍手が起こる。

「あんなに騒いでたのに青葛の時みたいに黙っちゃって。どうだ、あまりに日本語が流暢すぎて驚いたか?」
杉本が一人で笑っている。そうじゃない。勿論それもあるが、問題はそこじゃないんだ。
「ン、青葛というのは…?」
ふと、エドが杉本に尋ねる。
「ああ、一学期から留学生としてうちに来てもらっている、エミリーのことだよ」
もしや知り合いなのか?と杉本が問うたが、エドはその名前を聞くや否や、壇上で握り拳を震わせた。
「…知り合いも何も…」
彼は動揺に震える瞳で注意深くクラスを見渡し、迅の隣に座るエミリーを見つけ出した瞬間、それまで整えていた顔をぱっと明るく輝かせた。
「ああ!エミリーお嬢ではありませんか!」
と嬉しそうに声を上げた。

―――エミリーお嬢!?

迅が驚愕するのとほとんど時を同じくしてD組がざわつき始めた。一体この騎士服を着て顔を綻ばせた変人はエミリーの何なのだと、議論が活発に各地で巻き起こる。
「うるさい、黙れ貴様ら!」
喧騒に眉を顰めたらしいエドが突然大声で怒鳴った。教室は一斉に静まり返り、日頃教員の言うことをろくに聞かない生意気な生徒さえも、このときばかりは素直に従った。従わなかったらその腰に下げた巨大な騎士剣で何をされるのかと不安が過ぎったのだろうか。
「知りたいのなら教えてやろう。この方は…エミリーお嬢は、僕の許嫁だ!」
咳払いののち、誇らしげにエドが声を張り上げ、壇上からではあるがエミリーの方へ手を差し出した―――

―――許嫁…?

エドの腕の直線上に座っていた迅は、熱烈に手を差し出されながら―――正確には、隣の少女に向けてだが―――ぽかん、と空いた口が塞がらなくなった。聞き間違いでなければ、この男はエミリーのことを許嫁と言わなかったか?
あまり聞き慣れない単語のため意味を解するのに時間を要したが、認識が誤っていなければ、許嫁とは将来結婚を約束された二人組のことだ―――
イギリスから日本に越してきたのは今から三、四年前と聞いていたが、エドと顔を合わせるのは果たして何年ぶりなのだろうか。とにかく許嫁と久方ぶりに出会ったであろうエミリーの顔を覗き込む勇気が出ない。どんな顔をしているのだろう。少女はいつも通りの無表情なのだろうか。何故だろうか、いつのまにか張り裂けそうなほどに早鐘を打ち始めた心臓の拍動を押さえつけながら、そうであってほしいと思った。
見れば、顔を綻ばせたエドが教壇から降りて此方へと向かってきていた。一体これ以上何をする気だと動揺を隠せないまま見守っていると、彼はエミリーの席の隣に辿り着くや否やその場に跪き、左胸に右手を当ててエミリーを見上げた。まるで甘ったるいロマンス劇のような振舞いに、女子生徒がきゃあっと声を上げる。
「何年ぶりでしょうか、貴女と僕がこうして出会えたのは。相変わらずお美しい…お元気でしたか?」
エドの熱烈な視線は壇上での強気な態度からは想像もつかない、エミリーを盲信的に崇拝している男のそれだった。宛ら主人を愛してやまない飼い犬のようだ。
「…私は今も昔も元気なままですが、」
「はあっ、その声!まさしく僕の知っているお嬢だ!僕はずっとその声を聞きたかったのです」
エミリーが声を発した、たったそれだけのことでエドは目に涙を浮かべた。大袈裟なやつだなと思ったが、彼にとってエミリーと話せなかった十年のブランクは相当長かったのだろう。声を聞いた感動もひとしおらしい。
「あの」
喜びに震えるエドの肩に手を当て、エミリーは顔を上げるように促した。何でしょう?とエミリーを見上げたエドに、
「失礼ながら…私、貴方を存じ上げておりません。何処かでお目にかかったことがあるのでしょうか」
と、彼女は言った。
「え」
首を傾げる少女の前で、エドは糸がぷつりと切れたように唖然としている。無理もないだろう、十年も経てば人の顔を忘れることだってある……
「申し訳ありませんが、人違いかと思われます」
「は?」
投げ掛けられたエドよりも、迅の方が先に返事をしてしまった。
一体どういうことなのだろう。エドの態度から察するに、あそこまでの大口を叩いておいて蓋を開けたら真っ赤な嘘でしたというオチは考えられない。しかし、エミリーの困惑ぶりも過去に類を見ないほどのものだった―――
「困りました。ヘルプミー、迅君」
「あ、…え、俺?」
気付けば眼前で首を傾げながら困惑している少女に名前を呼ばれていた。どうしろと言うのだ。こっちが聞きたい。迅はうーん、と首を傾げ、ええいままよと切り出した。
「じゃあエミリーに代わって…エドって、本当にエミリーの許嫁なのか?」
咄嗟の自分の行動があまりにも滑稽で、思わず苦笑いが漏れてしまった。何故自分がこんなことを初対面の男に尋ねているのだろう。当然、返事はなかった。きっとエドもエミリーと同じように困惑しているのだろう―――と顔を上げると、
「……」
なんと、迅のことを凄まじい剣幕で睨み付けているではないか。透き通った緑色の瞳でこちらに向けられるその冷ややかで鋭い視線に、思わず肩がびくついてしまった。
「…貴様、ジンとはファミリーネームか」
随分とドスの利いた声だった。唸るような低音に、無意識のうちに背筋が伸びた。
「あ…いや、迅は下の名前で…黒羽迅って名前」
「ほう、クロツバ。黒羽、お嬢とはどういう関係だ」
久しぶりに名字を呼び捨てにされた。エドの品定めをするような瞳が、顔のあちこちに刺さる。大切な許嫁―――真偽のほどは不明だ―――に男の影が散らついていることへの不信感と敵意に満ちた鋭い視線を向けられながら、どう答えたものかと思案する。
友達でも何でもありません、と都合の良い嘘を吐いてしまえば自分が被害を被ることもないのだろうが、間違いなくエミリーのことを傷付けてしまうだろう。そもそも、嘘を吐くのだって自分らしくない。素直に真実を言ってやることにした。
「…友達だよ。今年からだけど、仲良くさせてもらってる」
「友達!」
返事を聞き届けたエドは、日頃から練習していないとすぐに出せないような高らかな嘲笑をわっはっはと浴びせかけた。何がおかしいんだと、思わず表情が曇る。
エドはふん、と鼻を鳴らして調子を取ると、迅の眼前に指先を突き付けて言い放った。
「貴様は友の分際で麗しきお嬢の名前を呼び捨てにしているのか!それに、友という位置づけも貴様の幻想でしかない!思い上がりも大概にしておけ!」
どーん、と大きな音が鳴り響くような台詞だった。
自分とエミリーは友達同士であると信じていたが、迅の側の一方的な思い上がりだと言われてしまうと、そんな気がしてきてしまう。声に出して言ってはみたものの、エミリーと自分との間の絆の覚束なさがはっきりとしてしまっただけだった。
「お嬢。こんな無礼な阿呆と付き合っていては、貴女の品位に関わります」
細く儚い糸で自分と繋がっているエミリーに向き直って、エドが諭す。
「私の品位、とは」
「貴女は高貴なお方です。俗物と戯れることそのものが、貴女の品位を下げてしまうのですよ」
「……よく、分かりませんが」
エミリーは少し考えるような素振りで目を伏せると、やがてゆっくりと口を開いた。
「記憶を辿ってみましたが、やはり貴方のことは存じ上げていません。私が貴方のことを思い出せていないだけかも知れませんが、貴方の記憶ももしかすると貴方の思い過ごしかも知れない。真実が曖昧な今は、冷静になってください」
普段の鈴が鳴るような柔らかな声色とは少し異なり、鋭い光を放つような声だった。エミリーの声を聞き入れたのか、いつの間にかD組はしんと静まり返っていた。
「お嬢がそう仰るのなら」
静寂に包まれた教室を顧みながらエドは素直にその進言を聞き入れ、深々と頭を下げたのだが、
「……」
迅の顔に穴が空いてしまいそうな程に鋭い視線をじりじりと向け、ふいと逸らし、指定された席へと歩を進めた。
「さ、て、と!」
杉本が手を打ち、D組の教室にクラップ音が響いた。D組の面々はその音で我に返ったように壇上の杉本の方を振り返った。
「お前ら、1時限目は体育だったろう。エドは明日の授業から参加して貰うことになってるから、よろしく頼む。急いで支度するんだぞ。じゃあ取り敢えず、ホームルームは終わりっ!エドは俺に着いてきてくれ」
明らかに場にそぐわぬぎこちない解散に、クラスからは曖昧な返事が返ってきたが、杉本は相変わらずわっはっはと笑っているだけだったので、その有耶無耶な空気は何処にも放たれることは無かった。エドはというと、自分の席で足を組んでふんぞり返っていたが、ふん、と鼻を鳴らして、杉本の後に続いて出て行ってしまった。

「迅、大丈夫か?」
侑斗が背中をぽんぽんと叩きながら問いかけるのだが、まあね、と曖昧な返事を寄越すことしかできなかった。平気なものか。冷静でいるよう努めてはいるが、どうにもざわつく心が鎮まらない。

―――エミリーお嬢は僕の許嫁だ。
―――思い上がりも大概にしておけ。

嵐のように教室を後にした留学生のあの敵意の籠もった瞳と言葉、そして自信たっぷりに放たれたエミリーの許嫁であるという宣言が、迅のざわつく心の中で入れ替わり立ち替わり現れては消えてゆく。
どうしてこんなことになってしまったんだろう、と窓の外の空に目を向けるが、相変わらず皮肉なほどに爽やかな青空が広がっているだけだった。