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2-01 only lonely day

冬が嫌いだ、と、冬也は思う。
まず一つは、単純に寒い。そしてもう一つ、空気が乾燥するので、寒さも相俟って抵抗力が弱まって病気を拗らせやすい。

『ごめん、風邪ひいたから休むね』

冬也は、駅のホームの喧噪を断ち切るようにヘッドホンで音楽を聴きながら、携帯端末の画面に表示された文字列をぼんやりとした顔で何度も読み返していた。
この頃はすっかり秋も深まり、夜はかなり冷え込んでくるようになった。とりわけ、ここ数日は気温の上下や急な雨が多く、身体の弱いやつが体調を崩すならここしか無いだろうと勘ぐっていたが、すっかり予想が的中してしまった。
彼の友人である碓井知生は、秋の気温変化にやられ、風邪をひいてしまったのだった。

『最近寒かったしな』

メッセージを送るべく素早く文字を打ち込むが、なんだか淡白に感じられて、消して、

『わかった!おだいじにね♥』

これではいよいよヤバい奴だなと顔をしかめ、消して、

『了解』

とても淡白になったので、消して、

『おう、ちゃんと水飲んで
あったかくして寝てろよ』

と打って、送信した。
それと時を同じくして、駅構内に電車の到着を告げる放送が流れた。ホームの端に設けられた黄色の線よりも外側で待てと、スピーカー越しに女性の声が促す。
無線で冬也の携帯端末に接続しているヘッドホンから、鼓膜に注ぎ込むビッグビートの力強い旋律に合わせて、ボーカルが英語で歌声を乗せている。

こうしてぼんやりと一人で電車を待っているとき、ふっと、ホームから軽快に線路の上へと躍り出て、迫り来る電車を眼前に拝む気持ちを夢想する。度肝を抜く観衆、一人弧を描いてレールの上へと舞い降りる自分。冷たい金属の上に、履き古したスニーカーで登場して、車両の放つ強いヘッドライトを浴びる。迫る地響き。血相を変えてブレーキを引く運転手。
怖いのだろうか。恐ろしいのだろうか。きっとそうだろうが、むしろ意外と爽快な眺めかもしれない。死への旅というものは。

『間もなく列車が参ります』

電車の接近するゴォオ、という鈍重な音が遠くから迫るが、冬也の耳はヘッドホンにノイズキャンセルされていて、脳から爪先までデジタルな重低音に飲まれていた。冬也は踏み越えてはならない黄色の線の鮮やかさを網膜に浴びてから、横をちらりと見遣る。すると、自分と同じようにイヤホンで周囲と遮断されたサラリーマンが携帯端末を触っていた。
ファン、と、ホームに侵入し始めた電車が短く汽笛を鳴らした。遠方から猛スピードで電車の車体が迫ってくる。
刹那、宛ら走り幅跳びのように、ここで、思い切り足を踏み込んで、飛ぶ―――

―――ような真似はしなかった。電車の侵入と共に風が巻き起こり、ホームに並ぶ人間は眩しそうに目を細めたが、冬也は巻き上げられるジャケットの裾にも構わず、真っ直ぐに前を見つめているだけだった。ブレーキ音の後、電車のシルエットが目で追えるくらいの速度にまで落ちると、これから乗り込もうとしている車両がずいぶんと混雑している様子が見て取れた。ゲーム機も携帯端末も開けそうにない。考え事にはぴったりだなと、冬也は自嘲するように鼻をふん、と鳴らした。

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器用にも、冬也は大人達でごった返す混雑した車両の隅に身体を滑り込ませ、周囲の邪魔にならないように荷物の入ったショルダーバッグを足下に下ろした。
外の冷え込んだ空気に対し、車両の中は人間の体温と効かせすぎと言っても過言ではない威力の暖房で温暖になっていた。この籠もった空気と人工的な暖かさがどうも苦手で、たまらず冬也は周囲にぶつからないように上着を脱いだ。しばらくすると、ホームと車両の間の人間の往来が済んだのか、電車の発車を告げるメロディが流れ、冬也のすぐ側でドアが閉まり、やがて車両はゆっくりと進み始めた。


冬也は、冬が嫌いだった。
それは、気候や体調を崩しやすいこともそうだが、自身が冬生まれであることが一番の理由だった。
誕生日が訪れると、毎年のように両親がプレゼントを用意し、歳を取ったことを大いに喜ぶ。また1つ大人になったねと、顔をほころばせる。両親の喜ぶ姿自体は嫌いではなかったが、冬也は大人になってしまうことを何故かとても恐ろしく感じるのだった。
また一歩、大人になってしまった。理由は分からないが、そのことが身体に重くのしかかる。将来に対する漠然とした不安からか、はたまた別の何かか…原因については全く謎だったが、はっきりと分かるのは冬が近づくごとにふつふつと湧き上がってくる底知れぬ嫌悪感だった。
冬也の周りでは、スーツに身を包んだサラリーマンが新聞を読んだり、携帯端末を弄ったり、ビジネス必勝法、人を虜にするスピーチのコツ、云々、などとデカデカと書かれた本を読み耽っていた。彼等は、どうやって『大人』になったのだろう?
正確に言えば、冬也は大人になることよりも、大人になる瞬間の方を恐れていた。冬也は漠然と、成人した瞬間が、酒と煙草を嗜むことができる状態が大人だと認識していたが、本当にその瞬間に、スイッチが入ったように大人になるものだろうか?

―――もしも、俺が大人になれば、
 
冬也は窓の外を流れる街の風景を見つめながら、

―――俺の『わからないもの』も分かるようになるのか?

静かに自答した。
答えは、返ってくることは無かった。


『次は、私立琉晴学園前です。お出口は、右側です。The next station is, …』

気が付けば、次の停車駅が琉晴学園の最寄り駅というところまで来ていた。冬也は煩わしげに携帯端末の側面の音量ボタンをカチカチと操作し、車内アナウンスがどこか意識の遠くへ行ってしまうまで音量を上げた。エフェクターを介して出力されたギターの電子的な音色が更に増幅されて、音波が脳の芯にまで直撃するような感覚に陥る。
目の前に来たら乗る。狙った場所に止まった時に降りる。電車に乗り慣れていない人間ならまだしも、冬也には慣れたもので、わざわざアナウンスで降りる瞬間を知らされるまでもないのだ。

『君が望む場所なら、
何処へだって連れて行ってよ』

ボーカルは相変わらず、ギターとドラムの連ねる五線譜の上で踊るように英語で歌詞を乗せていた。


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「おはよー」
「おはよー!」
「…の新ネタ見た?やべえだろ、お笑い新時代って感じするな」
「あー、マジでめんどくせえな、学校が消し飛んでしまえばいいのに」

冬也は一人、A組の教室の喧騒を他所に、自分の席でポータブルゲーム機を触っていた。左親指でスティックを操作する際にカン、カン、と押し込んだり、両の人差し指でゲーム機の上部に設置されたボタンをカチカチと押す以外には特に大きな音は発さず、静かに過ごしていた。
ゲーム機の画面では、スティックの操作に合わせて冬也の使っているアバターが右へ左へ忙しなく駆け巡っている。その動きに合わせて、またはその周囲の対象物を捉えるために、す、す、と、黒に茶を差したような澄んだ瞳が休むことなく動き続ける。
ふと、脳裏に熱と咳にうなされた知生のことが浮かび、冬也は静かな短いため息を吐いた。しかし、
「………」
その刹那、些細な操作を誤ったおかげで、アバターが画面の外へ吹っ飛ぶほどの大ダメージを食らった。冬也は小さく、本当に小さく舌打ちをした。
やめだ。冬也はさっさとデータをセーブしてしまって、ゲーム機の電源を切り、ショルダーバッグの中もろくに確認せずに無造作に突っ込んでしまった。

「おはようございま〜す、みんな、席に着いてね〜っ…」
時を同じくして、担任の諸磯がいそいそと教室に入ってきた。相も変わらず腑抜けたやつだと、冬也は顔をしかめた。
「ええと、碓井くんは欠席、と…」
諸磯は何やら出席簿にボールペンで書き込んでいる。前時代的だ。冬也は、出席をボールペンで名簿に書きつけている光景を目の当たりにする度にため息が出てしまう。琉晴の学生証がカードというだけでも前時代的なのに、そのカードには特にプリペイドの機能だとか、いわゆるICカードの機能は備わっておらず、ましてや出席を取ることなどできない。今時アーケードゲームのデータカードにだってICチップが埋め込まれていて、年齢を問わずデータのやりとりができるのに。
呆れると同時に、教室のクラスメイトを目で捉え、『碓井知生の欠席を何か言う学生』が居ないか確認した。これは、ほとんど無意識のうちの彼のルーティンだった。"幸いにも"誰も、知生の欠席を咎めたり、気にかけたり、悪く言うような生徒は居なかった。クラスメイトは知生に関心がないことを確認し終わると、冬也は何故かいつも、安堵したようなため息が出てしまう。

―――どれもこれもあの女のせいだ。

冬也はす、と目を細めて、睨むような目付きでクラスの一点を穴が開くほど見つめる。
ここからは表情を窺い知れない、野口珠緒の真っ直ぐに伸びた背中が、そこにはあった。


琉晴学園に、2限の開始を告げるチャイムが響く。A組の一行は学校指定の体操着に身を包み、体育館に集まっていた。今回の種目は、バスケットボールだった。
「あの」
当然のことながら喋る相手も居ないので、集団の中でぼんやりと突っ立っていた冬也に、女子生徒が話しかける。
「碓井君って、どうして来てないんですか」
先ほど冬也が視線を向けていた、野口珠緒だった。
「あ?」
碓井君。その名前が目の前の他人から、特に珠緒の口から発せられると、冬也は何故か分からないが、無性に腹が立ってしまい、眉間に皺が寄ってしまう。
「えと、だから…碓井君はどうして欠席なんですか」
聞こえていなかったのだと勘違いし、珠緒は再び問いを重ねる。
「それがお前に関係ある?」
冬也は腹立たしい心地のまま、ぶっきらぼうな答えをお返しした。
「へ…?いや、六刻君、碓井君と仲が良いじゃないですか。何か知ってるのかなって…」
「別に…欠席理由なら直接諸磯に連絡してるだろ。お前が知ってどうするんだよ」
「それは、そうですけど…」
珠緒は言いかけたが、もごもごと言葉を詰まらせて、黙り込んでしまった。そのうち珠緒は居たたまれなくなったらしく、冬也から視線を逸らすと、その場を去った。

 
バスケットボールの経験者である冬也は、体育の授業で人知れず注目を集めていた。現在はバスケットボール部はおろか、そもそも部活動に所属していないが、小学校の頃から続けていたお陰でそれなりのプレースキルは持ち合わせていたのだ。
「六刻!頼む!」
冬也はコートの端から放たれたロングパスを受け取ると、
「おう」
鮮やかなドリブルでディフェンスの構えるゴール下へと切り込み、
「おらっ!」
レイアップシュートを決めた。

 「六刻、経験者だったのか。プレーに安定感あるからこっちもやりやすいわ」
 冬也がTシャツの襟首で汗を無造作に拭っていると、名前も声も知らないクラスメイト―――先程ロングパスを投げた男子生徒だ―――が声をかけてきた。何故俺の名前を知っているんだろう。
「あぁ、まぁ…今は全然やってないけどな」
髪をくしゃくしゃと掻き、苦笑いで冬也は応じた。
「ポジションは?どこ?」
「ガードとフォワードを行ったり来たり…ってとこ」
「へぇ〜」
意外だという風に男子生徒は頷く。
「なんか、ずっと教室の隅っこでゲームしてるイメージだから、驚いたわ」
 男子生徒は気さくに話しかけたつもりだったのだろうが、
「……はは、だろうな」
冬也の顔は曇った。
「今度、昼休みにでも体育館でバスケしようぜ」
「…ああ、気が向いたらね」
冬也は男子生徒の誘いをやんわりと断り、水を飲みに行くという名目でコートを後にした。


きゅ、とバルブを捻ると、当然のことながらバシャバシャと、水道の蛇口から鉛色の水が溢れ出てきた。滴り落ちる水の向こうに、歪んだ遠くの校舎の風景と、初冬の薄青の寒空が透けて見える。
水など、要らなかった。冬也はただ溢れて止まらない液体の不定なシルエットを見つめながら、飲むこともせず、ただただ体育館に戻りたくない、とだけ思った。
知生が居る時は知生に集中すればいいだけなのに、と冬也は思う。いざ目の前から知生が居なくなると、是が非でも他者と関わらなければならないのが億劫だ。さらに恐るべきことだが、自分は日頃彼らに全く関心を抱いていないにも関わらず、当人たちは存外に自分に興味があるらしかった。
先刻も、名前を覚える気もない同級生から部屋の隅っこでゲームをしている、という日頃の自分の特徴を述べられただけで、底知れぬ悪寒がした。知生以外の他人の中に自分が居るという事実に、訳こそ分からないが、冬也は嫌気が差してしまう。
そういうとき、冬也はひたすらに心の中で懇願する。どうか、知生だけを自分の側に置いてください―――


「わーっ!中岡さん、ごめんなさい!」
「はは〜、いいのいいの。てか琳で良いってば」
「うう、ごめんなさい、琳さん」
「結局敬称なのウケる」

冬也はたった一人、あらゆる集団から外れたところで膝を抱えて女子生徒の試合を見ていた。冬也の近く―――といっても、2メートルは離れていたが―――に固まって座っていた男子生徒たちは、ひそひそと何か囁いている。
「本当に中岡ってスタイル良いよな」
「モデルみてぇ、胸もでけぇし」
「ぶっちゃけ、援交とかしてそうじゃね?」
「うわ!思ってたけど言わなかったのに!お前最低だな」
耳に入る単語の一つ一つが不快感を募らせるものばかりで、冬也はその集団に一瞥くれた。如何にも頭が悪そうな、盛りのついた男子生徒が4、5人、転がっていた。

―――シウは、そんなこと言わないんだ…

冬也は目を閉じ、自分の親友のことを思った。
人混みの中で何かに怯えるような彼の澄んだ瞳がゆらゆらと動いて、ふと俺を捉えると、ぱっと顔が綻び、安堵したような顔で駆け寄ってくる。そうして、瞳と同じように澄んだ声で、俺に呼びかけるのだ。

『大好きだよ、フユキ』

「んふ」
冬也は頭に充満した甘いシチュエーションに思わずにやけてしまい、口からは謎の奇声が小さく漏れ出た。
「えぇ…六刻のヤツ、にやけてるぜ…?」
「アイツも中岡にお熱なのかな、隅に置けぬやつよのう」
「いや、明らかに中岡のこと見てない。まさか、イマジナリー・ガールフレンドのことでも考えてるんじゃないか?」
「おいおい、六刻ってそこまで救いようのないオタクなのかよ…あんなに顔かっこいいのに」
既に男子生徒たちの関心は中岡琳から六刻冬也に移っていたが、冬也は知る由もなく、イマジナリー・ガールフレンドならぬ、イマジナリー・トモタカと戯れていた。

冬也と知生は、親友である。…と、少なくとも冬也の側は思っている。
しかし、側から見ればその距離感は親友と呼ぶには異常なまでに近いものだった。学校ではほんのひと時もお互いがお互いのそばを離れようとせず、登校する時間も、帰る時間も、趣味も同じ。さらに、冬也に限った話だが、こうして知生と離れている時も、彼の頭の中は知生のことでいっぱいだった。そのことを知る者は、冬也以外に誰もいない。

―――授業が終わったら、シウに連絡してみよう。

冬也はそう心に決めて、退屈な授業を乗り切ることにした。