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1-04 銀河から来た人

「……」
「……」
迅とエミリーはそれぞれ放課後の掃除を済ませ、天候観測隊の活動拠点である地学準備室へと向かっていた。
仮に隣を歩いているのが侑斗であれば多少は会話が弾んだのかもしれないが、相手はエミリーだ。ただでさえ掴めない彼女と今の自分がどう会話を弾ませたものかと、迅は内心頭を抱えていた。

16:02
『なんと部会に呼ばれちゃったよ!
早速代表の仕事だね。
申し訳ないんだけど、
先に地学準備室でミーティングを
始めててほしいな』

先ほど天候観測隊の代表である翔太から遅刻する旨のメッセージが届き、団体発足以来初めてメンバーが一人欠けた状態となった。
皮肉なことに翔太が欠けて初めて静寂が訪れたことで、結成したての団体の雰囲気を作っていたのは彼だったことに気付かされることとなった。翔太は自ら進んで代表をやりたいと言い出したわけだが、仕事を淡々とこなすだけでなく団体の雰囲気を和やかに保っていたというのだから、彼の見かけに依らぬスペックの高さには驚かされる。もしかすると、狙ってやっているわけではないのかもしれないが。
さて、平部員の自分は一体どうしたものか。階段を一段一段登るごとに近づいてくる地学準備室に無理を承知で少しずつ遠ざかってはくれまいかと祈るが、当然距離は縮んでゆき、遂には扉の前へと辿り着いてしまう。

扉を開けようかとエミリーの方を振り返ると、代わりに開けてくれますかというように頭を下げられたため、迅は年季の入った引き戸に手をかけて開け放った。
「お願いしまァす」
迅は入り口で足を揃えると、無人の埃っぽい地学準備室に向かって一礼した。
「……あ」
またやってしまった、と迅は額のあたりに手をやって深いため息を漏らした。
「黒羽君はいつも入室時にお願いします、と一礼されていますが、それは何かのおまじないなのですか?」
「えーとね…」
エミリーが疑問に思うのも無理はない。全国の運動部も同じような儀式をおこなっているかまでは迅にも分からなかったが、少なくとも自分は部活動で使う施設に対して一礼する決まりで今まで過ごしてきた。グラウンドならばグラウンドに、体育館ならば体育館に、これから使わせていただきますという意志を示すために一礼するのだ。自分は誠意を込めてやっているつもりだったが、いざその理由を問われると何とも言葉にしがたい。このように意義をはっきりと答えられない類の通例が、運動部には数多まかり通っている。
「成る程。また一つ、日本の運動部の事情を知ることができました」
「勉強熱心でよろしいことだ…」
「ハハー。アリガタキシアワセ」
茶番を繰り広げながら椅子に腰掛けた。

「……」
「……」
狭い部屋で二人きりの現状が気まずいのか、はたまた手持ち無沙汰なのか、エミリーは迅の真正面でおもむろに本を学生鞄から取り出して読み始めた。もしも自分が彼女のように暇を持て余していたなら同じ行動を取るだろうかと考えたが、すぐに棄却された。元より活字アレルギーの迅には読書など縁遠い世界だった。―――と、よく見ればエミリーの手の中の本は日本語で編まれたもののようで、表紙には『春と修羅』と書いてある。よく異国の言葉の書物が読めるなあ、と迅は溜め息を漏らした。
「それ、やまなしの人の本だ」
迅のほとんど独り言ともとれる呼びかけにエミリーが顔を上げ、ヤマナシ?と小首を傾げた。
「ケンジ・ミヤザワはイワテ出身の方ではありませんでしたか」
どうやら作者のことを山梨県民であると勘違いしたらしい。そういうことじゃなくて、と迅。
「その人の話にやまなしっていう童話があるんだよ。小学校のときに国語の授業で読んだことある」
I see.とエミリーは納得したように頷いた。
「左様でしたか。考えてみれば私も、ヤマナシは小さい頃に日本の教科書で読んだことがありました」
「へえ、そうなんだ」
一度そう相槌を打ってはみたが、何か不自然なことに気付き、迅は首を傾げた。そうだ、エミリーが日本の教科書を手に取ったのはつい数週間前ではなかったか。彼女の話し方だと、少なくとも小学生の頃には同じ教科書を見かけているかのような―――
「思い違いだったら申し訳ないんだけど、もしかしてエミリーって最近日本に来たわけじゃないの?」
と、問うてみることにした。
「……」
あ、とエミリーが零したのは数秒間の沈黙の後のことだった。
「私としたことが、口が滑りました。実はそうなのです、とほほ」
エミリーは読みかけの本に栞も挟まずに閉じてしまうと、ほんの少しだけ早口になって答えた。
やってしまった。迅は自分の顔が歪むのを感じた。本人はとほほ、などととぼけているが、知られては困ることを口走ってしまって内心焦っているのかもしれない。不快にさせてしまっただろうか。
「あー、ごめん!言いたくなかったなら忘れるからさ!バカにしか使えない3秒で忘れられる儀式を試すよ、ちょっと待ってて」
迅は慌てて、彼がトラックを駆ける際に足を回転させる速度と同じくらいに口を回すと、眉間に皺を寄せながらぎゅっと目を閉じ、額の中心に自分の人差し指を当てた。
「一、二の、……ポカン!はい、成功!忘れたからもう大丈夫」
こんな掛け声ごときで記憶がすっぽり消えてくれるのなら、今頃後ろめたさに苛まれる全世界の人間がこぞって試しているだろう。勿論、迅の脳裏から簡単にエミリーの情報が消えてしまうはずもなく、ましてや今の彼を苦しめている過去の記憶の断片が泡沫となって砕けてしまうこともなかった。
エミリーはきょとんと―――いつもの無表情ながら、その時だけはそういう印象を受けた―――していたが、可愛らしく小首を傾げてみせると、
「…無理に忘却しなくても良いのですよ。話す必要が無かったというだけで、後ろめたいことではありませんから」
と、告げた。
「そ、そうなの?なら良いんだけどさ」
「はい。ですが黒羽君、この件、ここだけのハナシでお願いしますね」
「お、おう。特に話す人も居ないし心配しなくて大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
エミリーは頭を下げたのちにふう、と息をつくと、読みかけの本を再び開いてその世界に没入し始めた。

特に狙ったわけではなかったものの、エミリーが隠していることを断片的に知ってしまった。ゴシップの類を好まない迅は、仮に秘密にしておいてと誰かに言われれば愚直にそれを守り、ずっと一人で抱えておける自信があった。従って『エミリーが日本に来たのはつい最近ではないらしい』という情報も、恐らく自分がこのことを日記に記したとして、それを教室のど真ん中に落としたりしない限りは今後一切漏れることはないだろう。
だがそれはさておいて、『ここだけの話』という単語にここまで浮き足立ってしまうものだろうかと、迅はやけに逸る鼓動を感じながら思った。何となく、秘密を共有して盛り上がる学生の気持ちが分かったような気がした。

ちょうどその時だった。階段を駆け上がってくる音が部屋の外から聞こえてきた。
「はぁ、はぁ、あぁ〜疲れた!」
引き戸を勢いよく開けて姿を現したのは翔太だった。急いで走ってきたのか、彼の呼吸はかなり乱れていた。彼はその場でしばらく息を整えたのち、顔を上げて二人に向き直ると、
「遅れちゃってごめん。じゃあ今週も『激討!観測部隊の明日はどっちだ?血で血を洗う仁義なき観測部隊ミーティング』を開催しまぁ〜す!」
と宣言した。
その後迅から「ミーティングで良いだろ普通に!」という鋭い突っ込みを受けたのは言うまでもない。

- -
「それじゃあ、今日の話なんだけど」
ミーティングの際には長机を二つ繋げて、片方の机に翔太が一人で、もう片方の机にエミリーと迅が二人で座り、向かい合った形になっている。ミーティングの開始当初、誰を一人で座らせるか論議がなされるのかと迅は思ったが、真っ先に翔太が「僕が議長だから一人で座るんだ」などと言い出したため、その話し合いの時間は削減された。

天候観測隊は週に一度例会を開く決まりになっている。―――のだが、如何せんメンバーがメンバーなので集まってもエミリーへのその日の授業の質問コーナーになったり、翔太の意味不明な星釣り講習会が開かれたり、迅が短距離走選手のメニューを体験する会を企画して誰も参加しなかったりと、とても不毛な集まりになっていた。
しかし少なくとも迅にとって時間を意味も無く使っている日々はどこか心地よく、放課後を迎えればそのまま3人とも特に嫌がるでもなく自然と地学室へ吸い寄せられていったので、余程の事が無い限りは不参加者が現れることはなかった。

「今日お二人に集まって頂いたのは他でもありません」
翔太はにこにこと笑いながら話を進める。
「僕ね、もっと色んな人に天候観測隊のことを知ってもらいたいんだ。琉晴生には勿論、学校の外の人にもね。もしかしたら僕達の活動に注目する人が増えたりして、琉晴の知名度が上がったりするかもしれないでしょ?それで、今日は僕達の活動を如何にして宣伝していくかについて話し合いたいと思ったんだ」
とにこにこしながら続けた。
「先週の議題とは打って変わって立派だな」
「確かに、先週の『北半球の夜空のどの恒星が一番美しいかについて話し合う』という議題は、浅学な私には少々しんどいものがありました。それはさておき赤坂君、とても素晴らしい意見ですね」
「別に恒星について話し合ったって良いじゃないか〜!まぁ二人がアルタイルさんとベガさんくらいしか知らない時点でまともな議論ができるわけないとは思ってたけども」
翔太は膨れていたが、すぐに真剣な表情になり、
「で、何か良い方法ありそう?」
と改めて問いかけた。
「うーむ」
思案顔で迅は唸った。
「じゃあ、学級新聞とかどうで―――」
「だーめ!廊下の掲示板をまず迅自身も見たことがないだろうからね。迅に限ったことじゃなく、新聞は最近じゃ目に留まりにくい物だからさ。もう少し目立つような物が良い」
途中まで言いかけたところで、翔太にバッサリと却下された。なんだよ、悪かったよ小学生みたいなことしか言えなくて、せめて最後まで言わせろよ、などとぶつぶつ小声で言いながら迅は額を木製の机に打ち付けて沈んでしまった。
「エミリーは、何かないかな」
「ウェブサイトによる活動紹介などどうでしょうか」
「ウェブサイト?」
理不尽な扱いによる不満からさながら疾風迅雷の如き速度で復活した迅は顔を上げる。
「はい。現代社会におけるコマーシャルの手法としてはほぼセオリーかと思われます」
「うーん、それなんだけどね」
すると、突然翔太が難しい顔になった。
「エミリーって、パソコンは得意?」
「いいえ。守備範囲外です」
エミリーは首を横に振った。
「一応聞くけど、迅は?」
「いや、全然ダメだ。人差し指でキーボード打ってるくらいダメ」
首をすくめる迅。そして、一応って何だよ、と小さく不満を垂れた。
「そっかぁ、生憎僕もなんだよねぇ」
どうしよ〜、と零しながら宛らなめくじのように机に翔太が伸びてしまった。頭の上に塩でもかけたらやめてくれと困ったりするだろうか、と悪戯心が湧くのを抑えつつ、
「もし仮にサイト?で活動の宣伝するなら、誰かしらパソコンに詳しいヤツとかに聞いた方が手っ取り早くて良いんじゃないかな。こんな状態の俺達だけで何とかしようとしてどうにかなるもんじゃないだろ」
と進言した。
「成る程。仮に一からウェブサイトの勉強をしたとして、本には我々の未知の情報が使えるものから必要のないものまで乱立している事でしょう。それらをビギナーの私達が取捨選択する時間は勿体ない。最低限、せめて見栄えの良い物が作れれば良いのですから、どなたかパソコンに詳しい方に教えて頂くのが最適解かと」
エミリーがそう付け加えた。
「そうだねぇ…パソコンに詳しい人、心当たりある?」
翔太は腕を組みながら2人を見やった。なるべくなら生徒が良いな、と加えると、
「私はまだクラスメイトすらも把握しきれていませんから、ましてや全校生徒のことなど尚更です」
とエミリーが俯き気味になって答えた。
「エミリーは仕方ないよ、……あ」
迅がフォローを入れつつ、思い出したという風にぽんと手を打って、
「…そうだ、アイツなら絶対知ってるだろ」
と言った。


「なるほど、考えたね迅!」
「ふふん、俺にしては冴えてただろ?」
「確かに学年中の生徒の情報を把握している彼ならば、確実に知っているでしょう」
所変わって、職員室のドアの前。エミリーの発言からヒントを得て迅が名前を出した人物、それは、
「杉本、杉本……ああ、あそこか」
杉本裕行。迅の担任にして、琉晴の全生徒のデータをかき集める教師だった。
「失礼します!」
「失礼しまぁす」
「失礼致します」
三人が順にそう挨拶しながら職員室へと入っていき、杉本のデスクへと向かう。生徒の教室よりも新しい作りのこの教員室は歩く度にキュッキュッという靴音が鳴る程丁寧にワックスがけの成された床が広がっており、室温調節を行う暖房・冷房も完備されている。冬場になると生徒が暖を取る為用も無く長居しがちのこの部屋の、二年生の担任団の机の並びの中に、杉本の机はある。

「ミスター杉本、少しよろしいでしょうか」
「お?青葛じゃないか。それに黒羽、赤坂まで。どうした」
キィ、と音を立てながらキャスター付き椅子を三人の方へと回転させ、柔らかく笑う杉本。彼の机の前にある本棚には、生徒のデータを書き留めているであろうおびただしい数のノートがぎっしりと詰まっていた。迅は思わずその光景に顔をしかめる。
「単刀直入に用件を申し上げますが、ミスター杉本はこの学年でパソコンの得意な生徒の方を把握していらっしゃいますか?」
「…ほう」
エミリーがそう問うと、杉本はその柔い笑みを何やら怪しげな事を企むかのようなニヤッとした笑みへと変えた。
「俺の使いどころが分かってるじゃあないか、生徒を検索したいからデータを寄越せってこったな?」
データの話を出来ることが余程嬉しいのか、クックックと不気味な声で笑う杉本。そんな彼を目の当たりにし、迅は彼に協力を仰ごうと提案したことを後悔した。
「ちょっと待ってろ。オススメのヤツが居るから。…と言うよりは、逆にお前達がコイツらとコンタクトを取って、出来ることならコイツらのデータを集めて欲しいってのもあるがな」

本棚に納められた大量のノートの束から迷うことなく一冊のノート―――表紙にはでかでかと黒いマジックで『特別版・謎生徒編』と記されていた―――を取り出し、ぱらぱらとめくりながら述べる杉本。彼は開かれたページを人差し指でトン、と叩く。
「碓井知生と、六刻冬也。それがコイツらの名前だ」
っておい、碓井の写真がないじゃないか、と杉本がセルフ突っ込みをかます。碓井という生徒の顔写真は、本来それがある位置から乱暴に剥ぎ取られていたのだ。
「碓井君と、六刻君かぁ。へー、これでむつきって読むんですね。珍しい名字だな」
翔太がノートを覗き込みつつそう言った。迅は心の中で翔太がこのままあのデータ狂の危ない趣味に巻き込まれてしまいませんようにと必死に願いつつ、遠巻きにそのページを覗くと、そこには奇抜なデザインのヘアバンドをした癖っ毛の男子生徒の写真が貼られていた。写真の下に2ーAと書かれていることから察するに、二年A組の生徒らしい。
「ちなみに六刻の方がパソコンに詳しい。なんてったって、オンラインゲームの開発者の息子だからな」
杉本が指さしたのは六刻冬也の方だった。成る程、確かにこの生徒の顔写真の下には『オンラインゲームを開発・運営する会社である株式会社ムツキコーポレーションの社長の息子』などと丁寧な字で―――おそらく杉本の直筆で―――書き記されている。
「六刻はことごとく俺の事を避けていて、全く素性を明かそうとしないヤツだ。どうせなら喋ったときの様子とかも俺に教えてくれよ、貴重なデータだからな。要は俺がデータを提供し、お前らはその代償にコイツの事を観察してくれって事さ」
お前の異常な知識欲の対象にされるくらいなら逃げた方がましに決まってるだろ、と迅が心の中で突っ込んだことは言うまでもない。
「しかし…また六刻のヤツ碓井の写真剥ぎ取りやがったな。あれは一週間張り込んでやっとレンズに納めたやつだってのに…でもま、念には念を入れ、っと…」
何故か確信じみた口調で六刻という生徒の仕業だとし、ガラリと引き出しを開ける。
「…あ、信じられねぇ!せっかく印刷した予備の写真まで処分しやがったな。わざわざ引き出しに閉まってたってのに六刻のヤツ…ククク…こうも避けられるとはやはり何かしらの原因があると見た…入学二年目にして明かされぬ素性、埋まらぬページ…ますます燃えてくるぜ…!」
最後の台詞は聞かなかったこととしよう。
「とにかく悪いな、今は碓井の写真は用意出来ない。まぁ六刻の外見は分かりやすいから、六刻を探す方が手っ取り早いと思うぜ。ああ、ちなみに安心しろ、自宅のパソコンに碓井の写真のバックアップは取ってあるからな。甘いぜ六刻」
写真を剥いだのが本当に六刻の仕業かは不明だが、もしそれが本当だとしたら、この六刻という生徒は本気で杉本を嫌っているものだと思われた。しかし、杉本の方にも原因があるだろう。―――いや、あり過ぎだ。
「ええと、もう一度お願いします、碓井…」
「知生」
「ともたか君、と」
「六刻冬也」
「むつきとうや君ですね。はい、ありがとうございます」
そして真面目に名前をメモする翔太。エミリーはともかく何で翔太はこんなにも杉本と抵抗なく喋れるんだ、と迅は気が気でなかった。
「ちなみにだけど…お前らは何でまたパソコンの知識が必要になったんだ?」
杉本がそう問うので、迅が答えた。
「ああ、ちょっと俺達の部活で必要なんですよ」
「陸上部で?」
「いや、観測隊の方で」
「そうか。てっきり、歴代脳筋部長が続いた陸上部が遂に時代に逆行したアナログ方式から離脱して文明の利器を使うのかと思ってたぜ」
「ちょっ、筋肉頭とか言わないでくださいよ!これでもしっかりやってきたんですから」
「ははーん、今や一週間に一回も顔出さない部長がかぁ?」
「うぐ…耳が痛い…」
「はいはいはいっと」
パソコンのデスクトップ上でメモ帳を開き、”黒羽やはり相変わらず部活に出ていない”と打ち込む杉本。迅はその記述を消し去るべくバックスペースキーを長押ししたい衝動に駆られたが、握り拳を作りつつ必死に堪える。自分の情報も余すことなく収集されているのだと見せつけられ、本当になんてやつなんだ、と辟易してしまった。
「でだ、黒羽」
キーボード入力を終えたらしい杉本がふと省みるので、しかめっ面を慌てて直しながら、な、何ですか、と返事をした。腰掛けている杉本が、レンズの奥から二つの眼で迅の表情を窺っている。
「冗談はともかく少しは部活に顔出せよ。とある生徒からの言伝だ。要約すると寂しくて参っちゃってるってとこかな」
と、突然杉本が意味深なことを口走るので、迅は冷凍庫でこの日のためにずっと冷やしておいた矢で心臓を真っ直ぐに貫かれたような心地がした。仮に杉本の発言ならお前に何の関係がある、とすぐに突っぱねられたが、自分と関わりのある生徒からの言伝であるというのだから少し意味合いが違ってくる。一体、誰だ。そして、何故杉本からそんなことを聞かなければならないんだ。ひやり、ひやりと矢で貫かれたあたりから冷たい感触が這ってくる。
「……侑斗ですか」
「いいや。降矢じゃない」
「……ああ、そうすか」
「名前は聞かなくて良いのか」
「良いです。第一、俺がそいつの名前知ったところでどうしようもないから」
ふと、自分の背後に並び立つエミリーと翔太のことが気に掛かった。自分とは何の関係もない二人が、こんな内輪の話を聞いたらどんな心地だろう。早く終わらせて欲しいと願うに違いない。いや、早く終われと真に願っているのは他でもない、自分だ―――
迅は失礼しました、と一礼して半ば乱暴に会話を切り上げてしまうと、出入り口の方へと歩き出してしまった。置いてけぼりを食らったエミリーと翔太は当然狼狽える。
「ま、待ってよ迅!先生、ありがとうございました。迅ってばー!」
「私も黒羽君を追いかけさせて頂きます。ミスター杉本、お忙しい所ありがとうございました」
翔太とエミリーも続けて礼を言って、迅の後を追った。
「おう、どういたしまして。頑張れな」
忙しいやつだなぁ、などと零しながら、杉本は二人に向かって別れを告げた。
 
 
- -
「迅ってば、待ってよぉ〜」
かなりの距離を置かれた翔太が、廊下のはるか彼方に見える迅の背中に向かってそう叫んだ。
「迅って、歩くのも、速いんだねぇ〜」
もう一度叫ぶが、迅の耳にはまるで届いていなかった。翔太は息をついたのち、迅をゴールに見立て、眼前のタイルを蹴って走り出した。
「うおおおおおお!」
遠方から迫ってくるばたばたという忙しない上履きの足音に、流石の迅も振り返って立ち止まった。見れば翔太は近付くにつれて失速し、やがて迅の元へと到達する頃には息も切れて、ほとんど歩く速度になっていた。
「はぁ、はぁ…迅!人が待ってって言ってるのに」
「…え?ああ、聞こえてなかった。ごめん」
「ほんとに聞こえてなかったの?」
嘘だぁ!と翔太がその言葉の勢いのままに迅の背中を叩いた。あいて、と小さく悲鳴を上げる。
「もぉー、迅って速いんだから、僕みたいな一般人の事も考えてよね。全然追いつけないんだから。ね、ほんと困っちゃうよね、エミリー」
翔太が振り返ってエミリーの名を呼ぶが、そこにはエミリーの姿はなかった。
「あ、あれ?一緒に歩いてきたはずなのに…」
虚な廊下を見るなり、翔太は怪訝な顔になった。
「迅を追いかけるのに必死で置いてきちゃったかもしれない」
「えっ、俺のせい!?」
思わず声が上擦るほどに動揺してしまった。鬱屈とした心情を振り払うがごとくに一心不乱に両足を動かして歩いてきてしまったが、翔太はおろか、エミリーのことまでも撒いてしまったらしい。ここまで周囲に気が配れなくなってしまったかと、迅は眉間に皺を寄せながら俯いた。
「できれば迅のせいにしたいんだけど…」
「うう、俺が悪かったよ!ごめん!エミリーは責任持って俺が探してきますッ」
居た堪れず、迅は息継ぎも無しに一気に早口で謝り、そのまま駆け出した―――
「あっ、ちょっと待って迅!ストップストップ!」
まるでフライングをした選手を二回のピストル音で制するように、翔太がそのロケットスタートを慌てて止めた。何でだよ、と迅がその場でタンタンと足踏みをしながら言うが、
「エミリーを探すのは良いんだけど、その例の二人を探すのはまた明日にしよう。放課になってからかなり経ったし、きっともう帰っちゃってると思うんだ」
と告げた。確かに、と頷く。
「僕も探したいって言いたいところだけど、D組で待ってようかな。迅の方が僕より足が速いし、きっと見つけるのも早いと思うから。エミリーが見つかったら集合しようよ」
「そうだな。エミリーが見つかったら、D組に行くよ。行ってきまっす」
翔太の答えを受けて迅はそう言うと、生徒がまばらになり始めた廊下を走り出した。行ってらっしゃい、でも廊下は走っちゃダメなんだよ〜、とその背中に向かって翔太が呼びかけた。


放課後になり、夕陽の差し込み始めた校舎を迅は駆け抜ける。
まずは第二学年の教室からだ。A、B、C、D…どの教室にもエミリーの姿はない。
肩で切る橙の風の中で耳を澄ませば、音楽部が混声で歌う透き通った歌声や、吹奏楽部がパート練習をする楽器の奏でる音、窓の外から聞こえてくる掛け声―――想像するに、サッカー部のものだ―――、生徒の談笑など様々に音が重なりあって、やがて「青春を謳歌する者たちの群像」の音となり、聴神経を介して伝わってくる。

―――かつては俺も、そのざわめきの中に居た。

階段を駆け下りながら、迅は回想する。

―――走ることしか考えていなかった俺は、いつだって校庭に一番乗りだった。走って、走って、走り続けて、気が付いたら部活動の時間が終わっていた。そうやって生きてきたんだ、これまでずっと。

パスを回せとせがむサッカー部員の声とスパイクシューズで砂を蹴る乾いた足音が、校庭の方から響いている。

―――本来なら今自分が蹴っているのも廊下のタイルなんかじゃなく、あの砂地だったはずだ。何で俺はここを走っているんだっけ。記録会に出るため?いや、エミリーを探しに行くためだ。陸上の道から遠ざかるために必死になって両の足を回している。馬鹿みたいだ。

ふと杉本の言葉が胸の奥に引っかかり、駆ける足が止まる。

―――『寂しくて参っちゃってる』っていうのは流石に拡大解釈が過ぎるだろうけど、発言の主が侑斗じゃないなら、一体誰が?そこまで気弱な友人は居なかったような…

「…って、あれ?」
ぼんやりと考え事をしながら通り過ぎた図書室に、何やら人影が見えた気がした。
迅は慌てて立ち止まって半分開いた引き戸の方まで踵を返すと、少し乱れた息を整えつつちらりと中を窺った。
迅の視線の先で、探していたエミリーその人が落ち着いた様相で椅子に腰掛けていた。
こんなところに居たのか、と安堵しながら図書室へと入っていく。どうやら彼女は読書をしているようで、本の山に囲まれながら―――その内容は確認できなかったが―――ページを無心にめくっていた。教員室で半ば無理矢理解散したのが、何分前…だっただろうか。とにかくほとんど時間をおかずにこの部屋に吸い寄せられ、読書を始めたのか。彼女の切り替えの速さに驚かされる。
「俺さ、エミリーのこと探して……」
迅がため息をつきながら顔を上げると、

「………」
クラスメイトに不思議ちゃんと揶揄われ、無表情を貫き通していた筈の彼女は、その口許に控えめな白い花のようにふんわりと柔らかい笑みを称えていた。

―――笑ってる、

そう迅が自覚した途端、あのとき始業式の後の教室で迅を包んだ青が、此度は彩度も鮮やかに図書室に雪崩れ込んだ。部屋の換気のために開け放たれた窓際のカーテンが大きくはためき、どこからかきらきらと真っ青に透き通った水が現れて、本の山を、迅を、エミリーを飲み込んでゆく。いつしか図書室は水底に沈み、そのカーペットはまるで海の底に積もった柔い砂のように滑らかに湿り、表面には水面の光の網模様がゆらゆらと形を変えながら映し出されていた。
エミリーはというと、急激な色彩の変化に別段動じる様子もなくページをめくり続けている。かたや迅は突如として青くなってしまった部屋の様相に度肝を抜かれながらも、目的を果たすべくエミリーの側へそっと歩みを進める。自分の煤けた上履きで水を掻き分けると、小さな泡沫が足元に現れてはさらさらと消えていくさまが目に映った。
近付いてみると、柔らかな笑みをたたえて本に注視するエミリーの瞳は、仮に自分が古代人ならば星座を幾つも作ってしまうほどの星々が煌めく海だった。彼女が文字を追うたびにその瞳がす、す、と動いていって、その海が溢れてしまわないかと人知れず辟易してしまう。
ふとこの夢か現か不明瞭な世界で、迅は思い当たった。この青は、銀河を流れる水の色なのだと。此処はまさしく天の川銀河の海の中で、星を鋼青の瞳に湛える彼女は、銀河生まれの人なのだと。道理で透けるような肌の色に、星の色の髪をしているわけだ―――

―――いや、そんなはず、あるわけないだろう。

エミリーはイギリス生まれの日系イギリス人だろうが、と迅が首を左右に振ると、まるでやりたい放題に暴れ回っていた自習時間中の学生が教室の外に担当教員の姿を認めて慌てて自身の席に駆け戻るように、青い銀河の水はたちどころに引いてしまい、微かな煌めきを窓際のあたりに残しながら跡形もなく消え去ってしまった。
「あ…あの…エミリー」
すっかり乾いてしまった図書室の静寂に恐る恐る声を投げかけると、まるで誤って海水を呑んで焼けてしまった喉から生じたような掠れ声が生じて驚く。そんな心許ない呼びかけではあったが、エミリーは気付いたらしい。はっと顔を上げ、その柔らかな長い髪を揺らしながらきょろきょろと辺りを見渡し、迅の姿を認めると、
「あ、黒羽君。こんな所で貴方と会うとは奇遇ですね」
と、抑揚のない機械的な声で応えた。
既にその顔に先刻の笑みは無く、彼女はいつも通りの無表情に戻っていた―――初めからそうであることが正しいとでも言わんばかりに。
「き、奇遇ってなぁ!」
迅はエミリーの座っている机の端をばしーんと叩き、急に居なくなるから心配しただろ、と早々に教員室を後にしてしまった自分のことなど棚に上げて早口で自身の気苦労を述べた。最もそこまでの苦労など被っておらず、ほとんどは迅の照れ隠しのためだったが。するとエミリーは「あ」と彼女にしては間抜けな声を出し、
「もしや私を探してくださっていたのですか。解散になったと思い込み、こんなところに来てしまいました。大変ご迷惑をおかけしました」
と表情も変えないままぺこぺこと頭を下げた。
「あ、いや、謝らないで…元は俺のせいだし。こっちこそ、急に歩き出したりしてごめんな」
まさかそこまで丁寧に謝罪が返ってくるとは思っておらず、慌てて頭を下げる羽目になった。誰もいない図書室で二人きり、向かい合って頭を垂れている。何をやっているのだろう。
「私自身、読書が好きなものですから」
「ああ…見れば分かるよ。本読むときすごい真剣な顔してたし」
「端から見れば分かるものでしょうか」
「うん。隠す気は無いんだろうけど、すごい分かりやすい」
「成る程」
ふむふむ、とエミリーは何やら頷いている。彼女の手元の本には、「はじめてでも分かる!Webサイトの構築」とタイトルが記されていた―――
「早速調べてくれてたのか。ありがとな」
「はい。ですがとても難儀しております。やはり専門の方に頼るのが得策でしょう」
「エミリーが苦戦するなんて…俺にはとても太刀打ちできないだろうな。翔太はどうだろう」
ははは、と苦笑いしたところで、赤坂翔太のことが思い当たった。
「あ、そうだ、エミリーを見つけたらD組に集合しろって言われてたんだった!翔太が空見ながら窓から落ちたりしたら大変だ。一緒に行こうぜ」
冗談を交えつつ、笑いかける。その刹那、迅にはエミリーが自分に同調して一瞬微笑んだ様に見えたが、
「…それもそうですね。では、この本を返してきます」
と、いつものように彼女は無表情で返すだけだった。
やはり先刻の青い時間も彼女の笑みも自分の気のせいなのだろうか、と迅は首を傾げた。