1-10 黄色矮星
「ねえ、知ってる?あの子のこと…」
「ああ、あの子のこと?あたし、登下校のとき何回か見かけたよ」
「病気だったっぽいな」
「俺は移動教室の時に見た。ずいぶん綺麗な子だったな。よく知らねえけど」
「ね。よく知らないけど」
「ああ、よく知らないけど」
「よく知らないけど」
「名前はね、確か、」
黄月明里。
それが、私の友達の名前だ。
名の知れた―――といっても、興味のない学生たちにとってはほとんど聞き馴染みがない―――ネットゲームで大規模な不具合が発生する数時間前の夕刻、野口珠緒は、二年A組の教室で怒り狂っていた。
「あーもう、何なの!?これで日直の仕事すっぽかされるの、何回目!?」
A組になにやら騒ぎ立てている狂人がいるぞと後ろ指を指されても困るので声は抑えつつ、それでも感情の爆発は抑えられず、机の列の中で箒を振り回していた。
突如、ごぉん、と机が大きな音を立てた。箒の柄が当たったらしい。放っておけばいいものを当事者ぶって怒っているお前がおかしいのだと戒めるような鈍い音だった。周囲に聞こえない程度に地鳴りのような唸り声を喉の奥からうううううと鳴らしながら、埃や塵の類を教室の後ろへ集めてゆく。
「なんで私がいつもいつも〜〜っ……」
彼女が悪態をつくのも無理はない。今日の放課後の掃除当番だった男子生徒二人が、電車の時間に間に合わないからどうのこうのなどと御託を並べて仕事をすっぽかしてしまい、クラスの代表である彼女が代わりに掃除をする羽目になってしまったからだ。
悲しいかな掃除には慣れたもので、一通り終わってしまうと、持っていた箒を教室の後ろに設置された掃除ロッカーに放り込んでしまい、そのまま大股に前の黒板に向かって歩き出し、
「わ〜っ!」
と声を押し殺して叫びながら、黒板に書かれた掃除当番を兼ねている日直二人の名前―――六刻、碓井と書かれている―――を思い切り消してしまった。
―――碓井君とは喋ったことがない…というか、話しかけても返事が無さそうだから話しかけたことがなくて、つまりあの人のことはよく分からないけれど、六刻君は最悪。何度注意しても「はいはいクソ真面目学級代表さま、お勤めご苦労様です」なんて言って!人を馬鹿にしすぎでしょ、なにがクソ真面目よ!
ようやく掃除が済んだ。珠緒は帰宅すべく自分の荷物を纏めながら大きな溜め息をつき、当てつけのように掃除当番をサボるなんてと歯軋りしていたが、
「それでその子、なんて名前だっけ、キヅキさん?」
「確かそうだったと思う。あの子結構可愛かったよね」
「だけど、ね…急だったね…」
「知らなかったな〜…」
という女子生徒同士の会話が教室の外から漏れ聞こえ、びく、と肩が震えた。
キヅキというのは、私の友達の名前だ。
かつて琉晴学園には、黄月明里という生徒が居た。容姿端麗、勉強はおざなり、その代わり趣味には全力と、ずいぶんエネルギッシュで溌剌とした女子高校生だった。
明里と珠緒、聡子は一年次に同じクラスに配属された友人同士だった。明里は天体観測とゲームが大好きで、暇さえあればゲームに興じ、ポータブルゲーム機で遊んでいるところを授業中に見つかって大目玉を食らっていた。だが、その度に彼女は言ったものだ。
「人生の限られた時間を何に使うかなんて、たとえ勉強が本業である高校生だろうと、当人の勝手だよ」
と。
またあるとき、海岸線を歩いていこうと明里が提案し、泡立つ波間を眼下に臨む高い防潮堤の上によじ登って歩き出したのを珠緒がたしなめた際も、彼女は言った。
「良いんだよん。だって、明日終わってしまうかもしれない人生なんだよ。今ここで足を滑らせて波の中に落ちて終わってしまったなら、それがあたしの人生なの」
と。
珠緒にはその言葉の意味するところが分からなかった。高校に入学して初めて出会った彼女のことを何も知らなかったからだ。だが、知ったところで遅すぎた。彼女には本当に時間が無かったのだ。
明里は、同級生の誰にも告げていなかった持病を抱えていた。昨年の冬に突然長期入院すると告げて学校から姿を消し、何事かと周囲が真実を求め、やがてそれを知る頃には彼女の姿形は机の上の花瓶に化けてしまっていた。
冬から春へと季節が移り変わり、高校生活二度目の夏が近付いてきた今でも、思い出の中の明里の姿は鮮明に目に浮かぶ。どれも太陽のようにきらきらと華やかに笑った顔ばかりだ。
その明るい笑顔の裏に、どれほどの苦しみを抱えながら教室の一角に居たのだろうか。少しでもその苦しみを取り払ってやれなかっただろうか。
何も知らなかったし知ろうとしなかった、と聡子はかつて自分の不甲斐なさを悔やんで涙を流したものだった。明里が居なくなってしまい、その話が学年中にようやく広まりきって、ほとんど生前の彼女と関わりのなかった生徒が噂話のネタにするくらいには時が流れてしまったが、恐らく聡子は未だに後悔を抱えていることだろう。大切な人を失って出来た穴はほかの何ものでも代替し難く、何より大きな痛みを伴う。
生者が天へ昇る途上の亡者を呼び止めてしまうのは悪いことだと分かっていたが、刹那ともとれる限られた時間の中で一体いくつの言葉が交わせただろうかとも珠緒は考えていた。時間が必要だった。
―――もう一度、明里と会って話ができないだろうか。
「呼んだ?」
ふと天井の方から、まるで星が降ってくるように人の声が聞こえた。
何故頭上から聞こえた気がしたのだろう。教室の外を伺うも、人の気配はない。とうとう掃除代行のしすぎで空耳まで聞こえるようになったのだろうか。とてもよくない傾向だ…
「ねーねー」
呑気なことを考えていられたのもそこまでで、今度は背後から呼び声がはっきりと聞こえた。女の子の声だった。
なにか、自分以外のものがいる。思わず珠緒は肩を強張らせた。感じる。自分のほかに誰もいないはずの教室に、自分以外の、人ならざるものを。
珠緒はそういう感覚や存在を信じているわけではないが、いわゆる第六感のような名状しがたい感覚が、背後に人ならざるものが居ると訴えかけてくる。
―――どうしよう、神様。やっぱり、怒ってしまう私がいけないんですか。電車の時間に間に合わないならば、日直の仕事は放棄しても良いってことにするべきでしょうか。ああ、このまま後ろを振り返って、顔面が血だらけのおじさんとか、目がないおばさんとか、そういうのが居たらどうしよう。助けてください、お願いですから…
ごくり、と息を飲み、珠緒は恐る恐る自分の背後を顧みた。
すると、
顔面が血だらけのおじさんでも、目がないおばさんでもなく、
亡くなったはずの彼女の友人である黄月明里が、自分のことを窺っていた。
「…う、そ、……あ、明里……」
恐怖していないといえば嘘になるどころか、むしろ恐怖の方が優っていたが、それでも珠緒は宛ら街中で友人と唐突な邂逅を果たしたときのような心地で感嘆の声を漏らした。
「へ」
明里と呼ばれた少女は、宙に浮きながら間の抜けた声を出した。そして、
「あれっ、珠緒、あたしのこと見えちゃってる感じ!?」
と顔をほころばせながら、あたし、というところで自身を指差しながら珠緒に迫った。その瞬間、珠緒の精神は驚きと未知なものへの恐怖でキャパオーバーに陥り、
「キャ―――ッ!!」
悲鳴を上げながらその場に倒れて気を失ってしまった。
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「………さん、野口さん」
意識の遥か遠くで、名前を呼ばれている……気がする。同時に、身体を揺すられている。珠緒はうーんと唸りながら目を覚ますと、
「…あ、気が付いた。よかった…」
掃除当番をすっぽかしたはずの碓井知生が、自分を見下ろしていた。
「ひぃっ!?」
寝ても覚めても驚きの連続で、珠緒は思わず上半身を跳ね起こしてしまった。直後ごつん、という鈍い衝撃が頭蓋骨の内側の脳にまで振動となって伝わってきた。珠緒は知生の額と自分のそれをぶつけてしまったのだ。
「いたた…びっくりしちゃって…ごめんなさい…」
床にうずくまって額を押さえながら謝罪した。彼も同じように額を押さえて、こちらこそ急に現れてごめんなさい、と詫びた。
「えっと…その…」
知生は居心地が悪そうに頬をかきながら、前髪の向こう側から珠緒の方をちらりと窺って、目を逸らして俯いて、
「…何で、こんなところで倒れてたんですか」
と、消え入りそうな声で問うた。
「そ、それは…」
どうしてだっけ、と倒れる前の記憶を手繰り寄せ、あっ、と思わず大声を上げてしまう。知生は何事だと言わんばかりに肩をびくつかせた。
「う、碓井君が今日の掃除当番だったんですけど!居なかったから、私が代わりに掃除をしていて……」
珠緒が状況を説明するも、肝心の知生はきょとんとしている。掃除当番とは何ぞやといったような、無知を体現した表情で珠緒の方を見ていた。
「俺…掃除当番、だったんですか」
「そうです」
「…ごめんなさい、知りませんでした…」
どうやら掃除当番であることを把握していなかったらしい知生は、珠緒の言葉を受けて、その場に体育座りで縮こまってしまった。まるで叱られた犬のように、背中が情けなく丸まっている。あまりの腰の低さに怒る気が失せてしまって、今度は珠緒の側が申し訳なくなってしまった。
「いや、別に怒ってないですけど…」
珠緒の声に知生は恐る恐るといったふうに顔を上げ、眉根を下げて上目遣い気味に、
「本当ですか…?」
と問うた。
うっ。何この人、あざとい……じゃなくて!珠緒はぶんぶんと頭を振って、余計な感情を脳裏から追い出した。
「知らなかったなら仕方ないですよ。次から気を付けてくれればいいので」
「……ありがとうございます…」
深々と頭を下げる知生。それから顔を上げて、ほっと安堵のため息をついて、言い訳じみてて申し訳ないんですけど、と語り出した。
「今日は日直じゃないのかってフユキ…じゃない、六刻君に確認したんですけど、違うの一点張りだったから普通に帰ろうとしてて…途中で忘れ物に気付いて、戻ってきたんです。そうしたら野口さんが倒れてたから何事かと思って…声…かけて…」
最後に行くにつれ、声量が減り、フェードアウトしていく。
「そうだったんですね」
彼のことを、すかしているだけで話に取り合ってくれないような冷徹な男だろうと勘違いしていた。単に碓井知生という男は喋り下手なだけで、自ら積極的にコミュニケーションを取ろうとしないだけなのだ。
「私は大丈夫みたいです、心配してくれてありがとう。ちょっとした出来事でびっくりしちゃって、まさか気を失うなんてって自分でも驚いてるんですけどね」
へへへ、と笑ってみせると、知生も安心した様子で、それはよかったですと静かに頷いた。
「あっ…じゃあ、俺は、このあと用事があるので…先に帰ります。今日の事、本当にすいませんでした」
知生は慌てて立ち上がって、制服のズボンの埃を払うと、ぺこ、と頭を下げて教室の後ろから出て行ってしまった。ほっ、と珠緒が一息つくと、出て行ったはずの知生が戻ってきて、
「…さようなら」
と挨拶だけして帰っていった。
「さ、さようなら…」
慌てて返してしまったので聞こえているかどうかも定かではないが、取り敢えず珠緒も挨拶した。そのあとしばらく、珠緒はその場から動けずに、彼の出て行った先をぼうっと見つめていた。
―――何だ、碓井君、普通にいい人だった…
「何だ、碓井君、普通にいい人だった…とか考えてない?」
「ひっ!?」
背後から心の中をそのまま朗読され、思わず肩をびくつかせながら背後を振り返ると、またしても少女が宙に浮いているではないか。
「冗談、冗談」
あっはっは、と少女は豪快に笑ってみせる。二度目ということもあって、珠緒は先程よりも落ち着いてその姿を見ることができた。が、彼女は生前の友人にそっくり…というか、瓜二つだ。ただ生前と異なり、その姿は微妙に透けていて向こう側が見えるだけでなく、頭の上には天使の輪が浮かんでいる。
「ほんとに明里なんだよね?黄月明里で間違いない?」
そう確認すると、
「いかにも!私は三度の飯より星とネットゲームが大好きな黄月明里さんです!」
少女―――黄月明里―――は腰に手を当て、胸を張って答えてみせた。さっきは脅かしてごめんね、などと丁寧に謝ってくる。この人柄の良さと温かな笑顔は、まさしく明里のそれだ。
「いや、その…幽霊に幽霊って言うのどうかと思うんだけど、幽霊に会ったことないどころか話したことがないから、何て挨拶したら良いかよく分かんなくって…久しぶり〜、で良いのかな…」
あはは…と消えそうな声で笑う珠緒。そんな彼女の言葉を聞き届けると、明里はしばしの間きょとんとしたのち、腹を抱えてげらげらと笑い出した。透けた足をばたつかせながらひいひいと悲鳴を上げるその姿は、まさに生前に抱腹絶倒していた彼女そのものだ。
「いや、まって、珠緒あんたいつも思うけどかしこまりすぎだって!友達なんだから硬く考えなくて良いじゃん、久しぶりの再会なんだから久しぶりで」
「そ、そっかな、そうかぁ…?」
「幽霊も人間もそこは変わんないって!というか、このあと珠緒ん家行ってもいい?ちょっとパソコン使わしてよ〜」
「はっ!?部屋片付けてないからダメ!というかパソコンなんてどうやって使うつもりなの」
「ちょっとばかし、きみに幽体離脱をしてもらってだね」
「幽体離脱ぅ〜〜〜!?」
何言ってるの藪から棒に!と、珠緒は宙に浮かぶ明里を叱るが、生前の彼女とのやりとりもこんな風に騒がしかったっけ、と昔の記憶が思い出された。
本来なら進級して教室の片隅で大好きだったゲームに興じていたであろう明里は、もう学校にも、自宅にも、この世界の何処にも居なくなってしまった。しかし今は、幽霊を名乗る彼女がふわりふわりと目の前に浮いている。本当にこの明里は、あの明里なのだろうか?
珠緒は目を伏せると、生前の明里の声と、目の前に浮かんでいる彼女の声が果たして同じものかと記憶の糸を手繰り寄せ始めた。視界の外で、ううん?と疑問を呈している明里の声がするが、構わない。
ほとんど似通っている―――と、思った。同様であると確信を持って頷ける正解など、知るよしもない。もう彼女の声帯は葬儀で焼かれて煙になってしまい、その声は二度と鳴らないからだ。そこまで考えて、珠緒ははっと顔を上げた。相変わらず明里は目の前に居て、自分の頭上で首を傾げてこちらを窺っている。
「うん?」
明里が、生前のものとほとんど同じに微笑んだ。
―――たとえこれが都合のいい幻覚だとしても、嘘だとしても、そもそも全てが夢だったとしても、自分が救われる夢ならば、できるだけ長く覚めないでいてくれたなら。
夢か現かはさておき明里が目の前にいる、ということがようやく実感を伴って珠緒の中に落ちてきたのと時を同じくして、視界の中で、明里のシルエットが二重になってぼやけてゆく。ぼんやりとした明里の輪郭は、ひょいひょいと物理法則を無視して浮かび続けている。
「なになに、どうしたの?」
器用なものだ、逆さまになりながら、頭の後ろで手を組んでそう返してくる。その様子が可笑しくて、つい吹き出してしまう。
「…ううん、何でもない。そしたら、一緒に帰ろ」
溢れそうになった涙を手の甲で拭って、彼女に笑いかけると、
「うん!」
やはりあの頃と変わらない、花のように眩しいほどの笑顔で、明里は答えてみせるのだった。