2-06 陸上部、緊急招集
「なんだ、もう飯に行きたくなったのか。あれから数日も経っていないのに寂しがりめ」
「…まあ、そういうことにしといて」
唐突な呼び立てにも関わらず、かつて同じ中学校で鎬を削った旧友・仁井田颯人は素直に誘いに応じ、迅の前に現れた。別の高校に進学して離ればなれになってしまってからは、颯人の服装といえば灼鷹高校の学校指定の真っ赤なジャージだったが、ランチに行くともなれば私服だった。ジーンズの上にTシャツを着て、上には固めの素材のシャツジャケットを羽織っている。シンプル・イズ・ザ・ベスト。いかにも硬派な彼らしい。
「生憎、最後に会ったのはあんなに前か、あれからどうしてたなどと聞かせてやれる思い出がほとんどない。なにぶん、数日しか経っていないんでな。申し訳ない」
「うるせえな、皮肉ばっか言ってると嫌われるぞ」
「減らず口は健在で結構」
決まりの悪そうな迅をからかうように、颯人は鼻を鳴らして笑った。
「で、行き先は」
「決まってるよ」
「よし」
淡々と会話を交わしながら、ファストフード店へと向かった。
迅と颯人のそれぞれの家を点として線で結ぶと、おおよそ中間点に琉晴学園が位置している。お互いが集合するならば琉晴近郊が良いだろうという颯人の提案により、迅はいつも友人と遊びに出かけている半ば自分の庭と化したエリアをロケーションとして選択することとなった。
不仲というほど険悪な仲ではなかったにも関わらず、迅は颯人とプライベートで遊んだことがなかった。別々の高校に進学してしまった後ならまだしも、中学の頃もだ。
中学生だった迅は今以上に朗らかだったが、颯人は今以上に生真面目でほとんど陸上のことしか考えておらず、他者を寄り付かせぬほどの強いプレッシャーを放っていた。チームメイトである迅が打ち解けようとしてもお構いなしで、そんなことより練習だと二言目にはトレーニングを持ち掛けるような男だった。当然、迅の目には『頭の硬いやつ』に映り、一年共に過ごした頃にはこんな難儀で暑苦しいやつとプライベートで遊ぶだなんて以ての外だと思わしめるだけの存在になっていた。
その認識は早急に改めるべきだったと、今は思う。彼はそのひたすらに真っ直ぐな気持ちを、陸上競技だけでなく周囲のメンバーに―――もちろん、迅にも―――密かに向けていた。難儀で暑苦しくて、義理堅く人情深いやつだったのだ。
昨年の夏の怪我で陸上部に戻ることができなくなっていた迅の事情を探るべく突き回すでもなく、叱責するでもなく、遠く離れた灼鷹でじっと待ち続け、その身を案じていたことが何よりの証拠だ。現に颯人は突然の呼び立てに文句も言わず、素直でない彼らしく皮肉こそ吐くが、迅の隣を歩いている。昨晩爆発しかかった―――否、ほとんど爆発していた―――衝動のままに招集をかけてしまったが、やはりこの男に声をかけてよかったと、迅は密かに安堵の溜め息を吐いた。
「本日の議題提案宜しいでしょうか」
ポテトとバーガーの山の前で、迅は指先を揃えて控えめに挙手した。ええ勿論、と颯人はおどけた口調で肩をすくめて応じた。
「単刀直入に聞くけど、颯人、恋愛経験ってある?」
「は?」
本当に単刀直入だったのでさぞかし驚いたのだろう。迅の問いを受け止めた颯人は、目を見開いて硬直していた。口の中へ運ばれるはずだったポテトが颯人の指からすり抜けて、ポテトの山の中へと還ってゆく。
「…変なこと聞いてごめん。だけど、正直に答えて欲しい」
深々と頭を下げる。かつて様々な課題や壁にぶち当たってきた迅だったが、それらは全て無心で打ち込むランニングが解決してきた。しかし今回の悩み事は、走っても走ってもぴったりとくっ付いて離れない自分の影のように執拗で、なかなか脳から振り落とされない。ゆえに、他者に自身の悩みを打ち明け、一緒に解決してほしいと頼み込むことも初めてのことだった。
しかしどうしたことだろう。恥を忍んだ懇願も虚しく、颯人は問いに応じない。一体どうしたのだろうと顔を上げると、
「……」
颯人の鉄仮面が、見事に崩れ去っていた。瞳はゆらゆらと焦燥に揺れ、顔にはみるみるうちに血が上って、やがて炎のように真っ赤になってしまった。うわあ、灼鷹のジャージと同じくらい赤いかも、などと指摘すれば中学生の頃のように引っ叩かれるかも知れない。やってしまった、と迅が後悔する頃にはもう遅かった。
「……ど、どういう風の吹き回しだ」
どうにか平静を保とうと、彼は眉間に皺を寄せるだけ寄せて憎まれ口を叩いた。迅の記憶の中の颯人といえば、こうやって怒っている顔ばかりだ。
「やっぱりこういう話苦手だった?ごめん…」
懐かしいな、と呑気なことを考えながら迅は苦笑いで詫びたが、
「うるっさい、黙れ!」
直後に、颯人はテーブルを勢いよく両の拳で叩いた。ドン、という大きな音に、迅は肩をびくつかせてしまった。心なしかテーブル上のフライドポテトも衝撃でぴょんと跳ね上がったかのように見えた。このとき迅は、人目につきにくい奥の席を選んでよかったと心の底から安堵した。
「なにが、なにがやっぱり、だ!苦手なわけあるか!上等だ…何処からでもかかってこい…」
迅の懸念などつゆも知らない颯人は歯軋りしながら握り拳に力を込めるだけだった。また何かの拍子に机を叩くんじゃなかろうかと、内心ヒヤヒヤしてしまう。
颯人は負けず嫌いだった。迅に勝つためならば、どんな努力も惜しまない男だった。今や恋愛の話でさえも迅に遅れを取るまいと必死になっている。遅れるも何も、そもそも迅はスタート地点に居るかすら分かっていないのだから勝負にすらならないのだが。
本当に申し訳ないことをしたな、と迅は大きなため息をついた。
「で、仕切り直すけど…」
「ああ…」
宛らカフェのカウンターで肘をつきながらコーヒーを啜るロマンスグレーの紳士のように、実際はファストフード店ですっかり氷が溶けて薄くなった―――颯人がまともに会話できるようになるまで少し時間を要した―――コーラをストローで吸いながら、颯人は息をついた。
「好きな人、いる…んだよな、態度から察するに」
「うぅ…」
颯人は聞こえるかどうかというような小さな声で呻いた。手に持った紙コップが握力でへこみ、べこ、と音を立てている。
「高校の人?」
「答える義理はない」
「つれねー」
「つれなくていい…」
問うている迅の顔には見向きもせず、颯人は決まりが悪そうな顔のまま、窓の外の人々の忙しない往来を眺めている。―――いや、さしずめ顔を合わせるのが気恥ずかしいのだろう。自分の苦手な分野の話を延々と聞かされるなんて、どんな心地だろうか。
「好きな人、ねー…」
迅は、大きな溜め息をついた。
「繰り返すが、どういう風の吹き回しなんだ。お前がそんな…す…好きなひと…の話なんて…希有すぎるだろうが」
好きな人、というところで、颯人は組んだ指にぐっと力を込め、分かりやすいほどにどもった。
「最近色々あってさ。うまく言えないんだけど、人を好きになるってどういうことなのかよく分からなくて困ってる」
はあ、と息を吐いて、吐いた分だけ息を吸いながら、そのついでにポテトを口に放り込む。
「単純バカのくせに急に哲学的なテーマについて思考するからそうなるんだ。どれほどの人間がその命題に挑んできたと思ってる。愛だの恋だので辞書を引いたりインターネットで検索するような女々しさはお前には合わん。思考を諦める方が賢明だ」
かつて颯人は迅のことを叱責しながら、単純バカと罵ったものだった。紛れもない事実なので、バカだから何だよ!と言い返すことしかできなかったが。懐かしさに、罵られているにも関わらず笑いが込み上げてしまう。
「だよな。きっと颯人なら言うよ、いいから何も考えずに走ってろって」
「今まさに言おうとしていた。天がお前に走ることを与えたのなら、走るしかないんだ」
活動方針、練習メニュー、ミーティングのやり方など、シチュエーションや原因は様々に幾度もぶつかりあってきた二人だったが、不思議とお互いの言わんとしていることは即座に理解できた。裏を返せば便利な嘘の類がほとんど通用しないため、常に剥き出しの信念をぶつけ合う形になってしまい、気付けば程度をわきまえず衝突してしまう…というのが中学時代の日常だった。
「そこまで気になるなら、試しにお前にも問いをそのまま返してやろうか。黒羽、恋愛経験はあるか。好きな人でも出来たのか」
颯人が、姉である黒羽薫が問うたのとほとんど同じように投げかけた。不思議なことに尋ねられた内容は似通っていたにも関わらず、異常なまでの焦燥に駆られることはなかった。颯人の言葉に揶揄いの色が見えなかったからだろうか。というところまで考えて迅は初めて気付いた。どうやら自分は人から揶揄われるのがあまり得意ではないようだ。
「恋愛経験はないよ。だけど、好きな人は沢山いる。颯人のことも好きだし」
よって、今回は素直にそう答えるに至った。これは迅の紛れもない本心だった。自分の【好き】の物差しで測れば、周囲の人間のほとんどは【好き】に区分される。だが、聞いた颯人は大層げんなりした様子だった。あのな、と颯人は何か言いかけて、いや、と首を振った。彼のあまりの自己解決の速さに、応じる隙もなかった。
「すまんな。男に興味はない」
颯人は窓の外の往来に向かって大きな溜め息を吐いた。これがお望みの答えだろ、とでも言わんばかりに。
「何でそうなる?そういうことじゃないって」
「そうだろうな。全く、効率の悪い問答だ…」
しかし直後、不快そうにじとりと細められていた颯人の目がはっと見開かれた。
「解ったぞ」
彼は一本のポテトを掴み、迅の眼前に突きつける。まるで拳銃を突き付けられたような心地だ。ポテトの表面にまぶされた小さな塩粒が飛んできたような気がして、思わずうわあと間抜けな声が漏れ、両の手を上げて仰け反ってしまう。
「黒羽。お前人が好きとか嫌いとか、そういう事について考えたことがないだろ。つまり、今日お前が俺に相談したいことというのは、恋愛経験の有る無しじゃない。お前の言う、そういうこと、そういうことじゃない、の境目についてだな」
「そ、そうなんだ?そうなのかな」
颯人は自分なりの答えを出したようだったが、当の迅は何故颯人がここまで早く結論に辿り着いたのか、というところで止まっていた。とてもではないがその議題で大丈夫だ、いや違う、と判断を下すことすらままならない。彼は短距離走では誰にも負けたことがなかったが、颯人の素早い思考回路には毎回置いてけぼりを食らっている。
「昔議題も固まらないままミーティングを始めようとしてただろ。悩みの正体がはっきりしないまま議会に持ち込むんじゃあない。この調子だと今も相変わらず部会で…佐倉にフォローされているんだろうな」
「うぐ、仰る通りです……」
「やはりな」
何故だろうか、彼の旧友である佐倉、つまり聡子の名前を出したところで、颯人は少しだけ眉間の皺を深くした。
「あまり佐倉に迷惑をかけるんじゃないぞ」
颯人は氷の溶けてしまったコーラという名の薄味の砂糖水を口に含みながら念を押した。そして何を思ったのか、プラスチック製の蓋を外し、美味しいか不味いかなら確実に不味い側の液体をストローも使わずにぐっと飲み干してしまった。真意をはかりかねたが、取り敢えずうんと頷いておく。
「…先に述べた通り、恋愛は得意な分野ではない。何故降矢に相談しなかった?あいつはこの手の話が好きだろうに」
颯人は更に共通の旧友、降矢侑斗を引き合いに出した。侑斗も聡子も、共に中学時代に陸上部で切磋琢磨していた仲間である。聡子は役職にこそ就いていなかった―――それか書記とか、曖昧なポジションだったかもしれない―――が、部のマネジメントの大部分は彼女が担っていたと言っても過言ではなかった。そのため颯人の鞭の餌食になるのは意見のすれ違いやすい迅や自由奔放な侑斗に限られていた。颯人が忌み嫌うとしたらまず自分と侑斗だろうと迅は考えていたが、話題に出たということはやはり黒羽迅も降矢侑斗も彼の中に確かに存在しているのだ。
「侑斗に聞こうかなとも思ったけど…探りを入れられたら困るんだよ。当事者同士が近すぎて。それに…あいつ色恋沙汰になると急に目の色が変わるから聞きにくてさ」
目の色が変わる、というあたりで颯人は忌々しげに特大の溜め息をついた。
「言わんとしていることは分かる。もし俺がお前と同じ悩みを持っていたとしても、あいつの世界にそれを持ち込もうとは思わないな。あいつは悪いやつじゃあないんだが、こと恋愛に関しては良からぬ結論に至りそうだ」
「ああ…あはは、大体そんな感じ」
颯人の言うとおり、侑斗は浮いた話が大好きだ。恋をすることとは何ぞや、人を好きになることとは何ぞやと、恋愛の国の入り口のチケット売り場にも到達できていない自分が恋愛の国の住人にそんな話をしてしまったとして、敷地内に連れ込まれて結論を急がれてしまったら困る。
「颯人はそんなことしないだろうって思ったんだ。侑斗を悪く言ってるわけじゃない、きっと真剣に相談に乗ってくれるだろうけど、何というか…今じゃない」
「概ね同感だ」
可哀想に、今頃侑斗はクシャミを連発していることだろう。
「で…だ。恋の国に住まわない俺の意見を言ってやろう」
颯人は腕を組み、椅子の背もたれにもたれかかった。一体どんな答えが飛んでくるのだろうと、迅は颯人の姿勢と真反対に前のめりになって言葉を待った。
「議題を明らかにしておいてなんだが、お前本当にバカだな。好きの種類だとか、境目だとか、お前はウンウン唸って考えているが、相手にとっては些細でどうでも良い事柄だろうが。何なら、お前にとってもどうでも良いことだ。考えても答えが出ないんだから。つまりだ、そんなことは考えるな」
考えても、というところで颯人は自分のこめかみに人差し指を当てる。それはそうだ。けれど、颯人の言う些細なことがこめかみの辺りから抜けてゆかないのだ。だから困っている。
「確かに、前の俺ならどうでも良いって言うと思う。だけど、なんて言うのかな…俺とは関係ない外野から、その答えを求められているような気がして…」
そうだ。迅は自分で言葉を紡いで気付いた。たびたび宇宙と交信しては自分の感情の正体を見失いつつあったが、元を辿れば交信を始めたのは、自分で答えを出すつもりのない領域に突如侵入され、意味深なことばかり問われるようになってからだった。
「何だと?外野の仕業なのか」
颯人が眉を吊り上げた。何か不服なことでもあるのだろうか。他人に罪をなすりつけるようで気が引けたが、ほとんど事実なので迅は頷いた。
「颯人の言うとおり、俺は好きの種類なんて考えたこともないし、考えたいと思ったこともない。一緒に居て楽しいなら好き…で良いんじゃないかって思ってる。けど…」
「それを良しとしない、答えを出したがりな奴が居るんだな?」
「…そんな感じ?」
「クソが!」
問答の最中、突如颯人が声を上げながらポテトを複数本鷲掴みにし、乱暴に口に放り込んだ。やはり何かが気に入らなかったらしい。いきなりどうしたと問うまでもなく、その答えを颯人が奥歯で擦り潰したジャガイモ混じりに述べ始めた。
「そんな奴にお前のコンディションを乱されたら俺の目標が無くなるだろうが。今すぐそいつの家に乗り込んで顔面をぶっ飛ばしてやろう。そして言ってやる。今度愛とか恋とか訳の分からん話をこの馬鹿野郎に吹き込んでお前の世界観でものを語ってみろ、その時はお前の生意気な鼻頭をへし折ってやるぞとな!行くぞ!」
行くぞ、と言うなり颯人はテーブルに手の平を叩きつけながら椅子を押し蹴って立ち上がった。しまった。迅はその時初めて颯人に相談したことを後悔した。颯人の他人思いを見くびっていたのだ。彼は思いの外、悩みに頭を抱える迅のことを案じていたようだった。それも、名前も声も知らない悩みの元凶たる人間に憤ってしまうほどに。迅は慌てて颯人の腕を掴んでそれを阻止した。
「待てって!脅迫の台詞が怖いよ!馬鹿野郎って俺にも失礼だし!それに真面目な話、これ以上騒ぎを大きくしたらまずい」
「ふざけるな!お前が良くても俺が良くない、どんな巨漢が来ても必ず沈めてやる!」
巨漢、というところで大柄なエドの姿が脳裏に浮かんだ。迅の知る限りでは、颯人はエドと同じくらい血液が沸騰しやすい男だ。もし血液の煮えたぎったエドと颯人が喧嘩したらどうなるだろう。エドは体術に長けているだろうが、身のこなしなら颯人の方が……と、シュールな風景を想像して吹き出しそうになった―――いや待て、まずはこの焼け石の如く煮えたぎった男を止めなくては。
「落ち着けって。薄味コーラがお気に召さなかったんだな。新しいのを注文してやるからさ。俺の奢りってことで」
「何?それなら俺も何かお前に頼んでやる。抜け駆けは許さん」
「よっしゃ!決まりだな、一緒にレジ行こうぜ」
どんなときも正合法で押し切る迅にしては、上手い策を思い付いた。颯人が自分に向ける競争心を利用し、うまく丸め込むことに成功したのだ。迅の思惑通り、颯人はコインケースを手にカウンターへと急いだ。やはり颯人は、筋金入りの負けず嫌いだ。
それから二人はまだ結露も始まっていない入れ立ての冷えた飲料を手にテーブルへと戻り、中断された会議を再開した。事情を話せと颯人が促したので、迅はこれまでの経緯を語って聞かせることになった。
今年の春に留学生の女子生徒が自分のクラスにやってきて、彼女を交えて星を見に行ったり公園でバドミントンに興じたりと仲間内で楽しくつるんでいたのだが―――勿論、その公園での一幕だけは颯人も知っていた―――つい先日、二学期になって現れた留学生の男子生徒が彼女の許嫁だと名乗り、迅のことを一方的に敵対視し、挙句彼女を好きかどうかと探りを入れるような素振りさえ見せ始めたのだ、と。改めて言葉にすると、唐突なタイミングで大災害に見舞われたような状況だった。
「なるほど。滅多に敵を作らないお前にしては厄介な奴に絡まれたな」
新しいコーラを啜りながら、颯人は肩をすくめた。
「…恋敵が黒羽迅だったら勝ち目が無いだろうし最悪の気分かもな」
「え、何だって?」
「二度も言ってやらん」
颯人は唇を尖らせて、とにかく、と続けた。
「そいつにとっても、譲れない事柄なんだろう。まあ大方、真っ直ぐすぎるお前にムカついてるだけだと思うが」
真っ直ぐすぎる、というところで颯人は目を伏せる。
「いいか、お前は救いようのないバカだが、その代わり真っ直ぐで、正直で、誠実だ。白夜の極圏のように、心の中に一点の闇もない。…その光を素直に受け入れられないのは、きっと心に深い影を落とした奴だ。そんな奴に構うな。時間の無駄だ」
そんな言い方しなくても、と迅は返事をしようと口を開きかけたが、すんでのところで踏み止まった。颯人が珍しく自分のことを褒めていたからだ。まるでドラマの中のきざな台詞のように聞こえたが、彼は涼しい顔で、雑然としたファストフード店の真ん中で吐いてみせた。まるで口説かれているようだった。何故恋愛の話になると突然顔を上気させて狼狽えてしまうのに、友人を褒めたり励ますことは容易くこなせるのだろう。仁井田颯人は、不思議な男だ。
「たぶん、良い奴なんだよ。きっと話せば分かるはずなんだ」
「話せば分かると言った後その偉人が撃ち殺されたのを知らないのか。対話など諦めろ」
「そうだな。俺も殺されるかも知れない。でも、諦めたくない」
「…まあ、お前はそういうやつだ。諦めないのなら、殺されそうになった段階で俺に言え。降矢でもいい。それか、あの…仲良しクラブの連中でも良いな。ぶちのめして分からせるまでだ」
「ぶちのめすかはさておいて…ありがとう。そうするよ」
そこで、はあ、と自分でも驚くほどに大きな溜め息が出てしまった。そしてその後に、控えめな笑みが溢れた。頬が緩んでしまったのだ。溜め息をつくと幸せが逃げるぞ、と颯人が忠告する。
「なんか安心しちゃって。初めて言葉にするのに、颯人が側に居てくれて良かった。ありがとう」
するとどうしたことだろうか、迅の言葉を受けてぎょっとしたように颯人は目を見開いた。
「な、何だ急に、気持ち悪い。そういう時は、うるせえバカとだけ返してただろうが」
どうやら颯人は迅が本心から頭を下げるさまが不気味だったようだ。中学の頃は素直に礼も言えず、捨て台詞のようにうるさいと溢すのが常だったようだが、果たしてそうだったろうか。というより、いつから自分は気持ちを素直に伝えるようになったのだろう。もしかすると、天候観測隊―――颯人の言う仲良しクラブ―――の面々と出会ってからかもしれない。
「たまにしか会えないんだし、素直に礼くらい言わせろよ。バカなのは変わらないけど、俺だってもう高二なんだし、少しずつアップデートされてる」
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔とはこのことだ。颯人は、口を薄く開いたまましばしの間硬直していた。一度開いた口を閉じ、何か口走ろうとしたが、はあ、と短く息を吐いて、首を振った。
「……では、俺も素直に受け取っておく」
颯人は照れ臭いのか、ふ、と机に向かって短く息をついただけだった。素直じゃないのはどっちだ、などと野暮なことは言わなかった。それが彼の精一杯なのだ。
「これからどうする」
ファストフード店を後にし、入り口近くの雑踏の流れを見遣りながら颯人が迅に問うた。
これからのこと。これから、自分はどうするべきか。悩みを聞き届けた颯人は彼なりに助言を寄越したが、最後に行動し未来を変えるのは自分だ。たとえこの規則的な雑踏の流れに身を任せ、群れと同じように歩みを進めたとしても、自身の考えや行動は自分だけのものだ。周囲から群れの一員に見えたとしても、選んで雑踏の流れに乗っている。
「あんまり考えないことにするよ。無理だろうけど、なるべく。それに、俺はやっぱりあいつとちゃんと話してみたい。どうにかするよ」
迅はこれから歩を進める雑踏を前に決意を新たにしたつもりだったが、覚悟を聞き届けた颯人は、はあ?と顔をしかめた。
「…ああ、そうだな。お前がそうしたいならそれが良い。だが俺が問うたのは未来の展望ではなく、今日の午後の予定だ。さて、もう一度問おう。これからどうする」
と、続けた。
「それは…全く考えてなかった。ごめん」
「やはり結果重視で過程はノープランか。黒羽の思考回路は分かりやすくて助かる。では…」
颯人は迅の前に、す、と手を差し出した。どうしたのだろう。まさか、今から手を繋げとでも言うのか。この大通りで?恋愛のレッスンのために?
「貸せ。携帯を」
どうやら恋愛のレッスンではなかったらしい。迅は密かに安堵しながら、携帯端末を手渡した。
「公園にでも行くか。愉快なお友達とな」
颯人は両手で端末を繰り、メッセージアプリの中身を漁り始めた。他人に見られて困るようなやりとりはしていないが、こうも無遠慮に確認されると少し緊張する。相手が颯人だから良いが、仮に親なら、姉なら…考えるのを躊躇うほどの沈鬱な気分になる。
「降矢は…と。こいつ…相変わらずろくでもないメッセージばかり送っているのか…」
侑斗が先日送信してきた美女の写真に目が留まったらしい、颯人は露骨に不快そうな顔をした。
「何すんの?」
「電話だ」
引き止める間もなく、颯人は侑斗に電話をかけてしまった。それも、迅の携帯端末で。颯人は素直ではないし、何より横暴だ。
『やっほー迅、急にどしたの』
ほどなくして、こちらの事情など預かり知らぬ侑斗が迅に呼びかけた。しかし、携帯端末の向こうに居るのは颯人だ。
「降矢!俺の声を忘れたとは言わせんぞ、仁井田だ。今すぐ荷物をまとめて海浜公園に来い!」
『え、な、何、颯人!?迅と一緒に居んの?』
当然、あちら側の侑斗は慌てふためいた様子だった。そのはずだ、休日に迅から電話がかかってくることですら稀有なのに、その電話口に颯人が居たのだから。
「お前のところの部長のコンディションの悪さが笑い話の範疇を超えている。すぐさまスパルタ練習メニューにぶち込むぞ。お前も参加しろ」
『えぇっ、うえええ!?』
「大体チームメイトのくせに仲間の体調も気遣えない奴があるか!このバカとバカの超弩級バカコンビが!とにかく至急海浜公園に集合!」
『そ、そんな、俺だって何とかしようとしたよ!…あーもう、分かったよ、細かい話はそっち行ってからする!また連絡する』
侑斗はそう告げると、電話を切断してしまった。
「フン、あいつも変わらないな」
あれだけの剣幕で捲し立てておきながら、颯人は噛み締めるような笑みを浮かべた。素直になれば良いのに、とは言わなかった。先のとおり、それが彼の精一杯だからだ。
海浜公園は、翔太が週末の天候観測隊の活動場所として選ぶ場所だった。本日は活動日ではないため、当然のことながら広場にバドミントンラケットを持った彼の姿はなく、炭酸飲料に挑戦するエミリーや麻望も居ない。そして、しかめっ面でこちらを凝視しているエドも。
「命だけは助けてくださーい!」
迅と颯人が広場で待っていると、侑斗が自転車を飛ばしながら公園に入ってきた。二人の前で思い切りブレーキを踏むと雪崩のように降りてきて、今にも土下座するような勢いで懇願してきた。
「画期的なタイムだな。一体いくつ信号を無視した?いっそ長距離に転向したら良いんじゃないか」
「信号無視した回数?1、2、3…って、ヒドいよ!迅にバトンを渡すのは俺の役目だもん。長距離なんか行かねーよだ」
「さすが黒羽教司祭だな。こいつの前は誰にも譲らないというわけか」
「あったりめーよ!ハハハ!」
唐突な呼び立てにも関わらず、侑斗は汗だくになりながらも、満面の笑顔でもって現れた。日頃は琉晴の制服か学校指定のジャージを着ている侑斗も、休日ともなればカジュアルな私服姿だった。
「あれ、練習って聞いたからジャージ持ってきたのに、二人とも私服?」
私服に注視していると、ちょうど侑斗が服装の話を始めた。ただ颯人に話を聞いてもらうつもりでやってきた迅も、まさか話の流れで公園に行くことになるとは思っておらず、当然運動着など持ち合わせていない。さて、事情をどう説明したものか。
「こいつは知っての通り、重度のランニング狂だ。和やかな雰囲気で昼食を取っていたのに、突然地の果てまで走りたくなったなどと酔狂なことを口走ったので、やむを得ず連れてきた」
と、そこで颯人が口を挟み、代わりにこちらの事情を説明した。とんでもない事実無根だ。
「そんなこと言ってないって!俺はただ…」
「そういうことにしておけ。スタートからゴールまで一直線に走ることに、何か特別な理由が要るか?要らないだろう。なあ、降矢」
ただ走りたいとしか考えていない単純バカと思われては堪らないので、颯人を問い詰めようとしたが、すぐに発言権を侑斗にパスされてしまう。
「…お、おう、そうなんじゃね?走りたい時に走れば良いよ。迅なら尚更ね」
侑斗は怪訝な顔をしていたが、自分には解せない何かがあったのだということは察したらしい、迅に笑いかけながらそう促した。
「走りたい時に、走る…」
「そ!好きなものだけは譲っちゃダメだぜ」
「…好きなもの?」
おい、バカ、と颯人が小声でもって侑斗を叱責した。相変わらず事情を解さない侑斗は、何故怒られたかも分からず首を傾げるだけだったが。
さて、迅は改めて思考する。
あれこれ考えてはみたが、颯人にも告げたとおり、好きの厳格な境界など迅にとってはどうでもよい事柄だった。その人が迅のかけがえのない、大切な存在かどうかだけが関心事だった。そして気付いた、エドは自分を試すような真似をするが、自分の中には彼が求める答えがないのだ。
少なくとも今言えるのは、そんな大切なものを自分の意志もぶつけぬままに理不尽に奪われるくらいなら、死んだ方がましだということだけだ。
「…そうだな」
お、と颯人と侑斗が同時に声を漏らした。
「好きなものだけは、譲るつもりはない。今までも、これからも、ずっと」
迅は羽織っていた上着を脱いで、袖を腰に巻きつけてしまうと、両の腕を念入りに伸ばし始めた。
「走ろう」
ストレッチの体勢のまま、颯人と侑斗に促した。両名はしばらく顔を見合わせていたが、迅の側に向き直ると、うん、と笑みを讃えながら頷いた。
「うおおおおお!」
「その意気だ黒羽!脳に回せるブドウ糖が尽きるまで走れ、バカにつける薬は無いんだ!」
「死ぬ―――!」
「降矢、こんなことで死ぬ奴があるか!」
「限界をぉ!超える!」
「負けてたまるかァ!」
「あづい―――!」
「暑いだと!?そんな戯言、…暑い、暑いな…」
「あ、暑くね…?」
「暑いな…」
「……」
「……」
「もう、やめとくか…」
「そ、そうだな…」
砂地を幾度も走り込んで砂埃まみれになった三人は芝生に倒れ込み、まだ勢いの収まらない太陽光を遮ることもできずに空を仰ぎ見た。
「…ははは」
しばらくして、侑斗が小さく笑った。極度の疲労感に苛まれている今、よく耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほどの小さな笑い声だった。
「…何笑ってんだ」
怒号でもって迅や侑斗を追い立てていたおかげでしゃがれてしまった声の颯人が、掠れた声で空に向かって話しかけた。
「懐かしいなって。二人とも負けず嫌いだから、ずっと走ってただろ?俺、あの頃は全然体力がなくて着いていけなくてさ」
侑斗の手が、空に伸ばされる。迅の視界の空の中に、侑斗の細長い腕が映る。
「あー、あったあった。馬鹿みたいに走り続けてて、気がついたら、侑斗が居なくなっててな」
「いつか俺たちに愛想を尽かして黙って下校していたこともあったな」
「あ、バレてた?」
「当たり前だろうが」
と、そこまで思い出を振り返って、揃って笑い声を上げてしまった。周囲など構わず、ただ目の前に広がる青い空の彼方に向かって大声で笑った。この日のために用意したお気に入りの服も、慣れないワックスで格好をつけた髪も全て砂や芝でめちゃくちゃになってしまい、挙句には疲労で身体中が倦怠感に包まれていたが、何故か愉快で堪らなかった。やはり緻密で曲がりくねった思考は、真っ直ぐで泥臭い自分には向いていなかった―――
やがて青かった空も、陽が傾けば橙へ変わり、鳥たちが一斉にその中へ飛び立ち、帰路を急ぐ。つられるように迅たちも解散し、それぞれの家路を急いだ。
「おかえり迅、あの、ほんとにごめん!わたし、迅がそんなに悩んでるなんて知らずに…」
家のドアを開けるや否や、予め待機していたのだろうか、玄関で薫が運動部特有の直角に近い礼でもって謝罪してきた。
「あ、そんなこと…ハハ、気にすんなって」
彼女が顔を上げれば、当然さきのランニングで砂まみれ、芝まみれになったボロボロの迅が映ることになる。事情など知らない薫は迅の有り様に度肝を抜かれた様子だった。
「ど、どうしたのそんな埃まみれになって!?早くお風呂入りな」
「水飲んだら入る…」
「もー、何してんの!とりあえず、外で砂叩いておいで。水持ってくるから」
「ありがとう…」
砂埃を落とせと言われたので、ふらつく足取りで表に出る。腕、胸のあたり、足…と叩いてみると、とんでもない量の砂埃が吹き出してきた。姉は何を慌てふためいているのだと首を傾げていたが無理もない、と迅は苦笑いしてしまった。
「また加減も考えずに走ってきたんだね」
薫がコップ一杯の水を持ってドアの向こうから現れた。それを受け取り、一気に飲み干してしまう。ただの水道水だ。浄水施設で徹底的に濾過されどこまでも透き通った、口の周りの砂埃を添えた爽快な水道水だ。
「また、って?」
姉の言葉が気にかかり尋ねてみたが、彼女は覚えていないのかと言わんばかりに目を丸くしていた。
「ほら、小学生の時だよ。姉ちゃんに負けたくないとか言って一人で出て行っちゃって、こんな感じでフラフラになって帰ってきて、水をくれって」
「そ、そんなことあったっけ?」
「あったよ。あの頃から変わらず、無鉄砲だね」
はっはっは、とご機嫌に笑っている。
「無鉄砲馬鹿で悪かったな」
「違うよ、褒めてるんだよ。珍しく悩んでたみたいだったから心配してたの。でも、迅の良いところはそのままで良かった」
「な、なんだ急に…」
気持ち悪い、と言いかけて、全く同じ台詞を口にした颯人の怪訝な顔が浮かんだ。今度こそ薫は嘘偽りなく素直に自分のことを褒めているようだった。それならば、自分も性根を据えて素直にならなければなるまい。
「ほんとにごめんね」
台詞を再考していると、再び薫がそう詫びた。さきの言葉尻から察するに、昨晩のことを謝っているのだろう。
「…もう、良いって。俺らしくなかったし。良いんだ」
手元のガラス製のコップを眺めながら、返事を寄越した。ガラスを通り抜けた太陽光が、指や手の甲に煌めいている。
「まあ、そういう話はやっぱり守備範囲外なことが分かったし。結果オーライかな」
そっか、と薫。
「でも、迅に心を許せる伴侶ができるのが楽しみなのは本当だからね。いつか絶対教えてね~っ」
「姉ちゃんには絶対教えてやんねぇよだ」
「ははは!それでもしつこく待ってますよだ」
「姉ちゃんがしつこく待った挙句干からびてても言わねぇよだ」
姉弟はそう罵り合いながら、それでもどこか嬉しそうな様子で、家の中へと吸い込まれてゆく。
「おかえり、…ちょっと!迅!どうしたのその格好!」
温かい夕飯が、待っている。