1-13 朱に交われば
平和だ。平和すぎる。黒羽迅は、休日の公園のベンチで黄昏れていた。
梅雨をはじき飛ばすような、天まで突き抜けるような初夏の快晴。昨晩夜通しで雨が降り続いていたお陰で空気中の塵が大地へ降り注いでしまったらしい。それに遮られないおかげで空がいつもより青く見えるのだ、と翔太が解説していた。気がする。
その翔太はというと、現在公園の一角に設けられた小高い丘―――土管で作られたトンネルが下を通っている―――の上に立って、今日の調子はどうですか、などと空と交信を始めてしまい、まともに会話に取り合ってくれなくなってしまった。
視線を移すと、麻望がブランコに揺られていた。日頃かなり丈を詰めたスカートで歩いているせいか、半袖のTシャツにパンツというボーイッシュでシンプルな洋服を身に纏う彼女は新鮮だった。先程まで紫外線が~などとぼやきながら日焼け止めを塗りたくっていたが、納得がいくまで日焼け予防を施して安心したらしい、今は日の光の下でのんびりブランコを漕いでいた。
「エミリー、来ねぇなぁ」
迅はふーっと、長いため息をついて空を見上げた。本当に、寸分の違いもなく快晴という表現が正しい青空だった。太陽を遮るものがないので、眩しさに目が眩む。
「私達が早く集合しすぎなのよ」
ブランコの上から麻望が返事を寄越した。それもそうか、と迅。
まず迅が時間を勘違いして集合時間の30分前に一番乗りしてしまい、暇なので軽いランニングをし始める。そこへ、青空と交信すべく翔太がその12分後に到着。迅ってば早いねぇ、お前もな、たったそれだけしか会話が為されず、次に迅が話しかけたときにはもう既に彼の意識は青空へと旅立ってしまっていた。そしてその8分後に麻望が到着し、まず目に入った翔太に何をしているんだと話しかけるのだが、彼は青空トリップの真っ最中で取り合わない。そこへランニングをしていた迅が走ってくる。早いわね、お前もな、またしてもたったそれだけで会話が終了。今に至る。
「あ、あれか?」
迅が公園の入り口の方を見遣ると、麻望もそれにつられてそちらに目を向けた。そこには、ブロンドのストレートヘアを日本の蒸し暑い風に靡かせながらとことこと歩いてくるエミリーの姿があった。相変わらずカチコチに固まった無表情で、彼女は面々の姿を見るなり足取りを早めた。
「5分前に到着するように出発したのですが、もしや私は勘違いをしていましたか」
迅の座るベンチに辿り着いたエミリーは首を傾げそう問うのだが、そんなことはない、と迅は首を振る。
「みんな早く来すぎたんだ。俺は時間間違えるし、翔太はあんなだし、麻望も」
と、それぞれの方を見遣りながら迅は答えた。そういえば麻望はどうして早く来たのだろう。そんなにブランコが漕ぎたかったのだろうか?そんなわけはないだろうに、と首を傾げる。
「左様ですか。遅刻をしてしまったかと、少々焦りました」
言葉とは裏腹に焦りの色など微塵も浮かばない硝子の瞳に迅の姿を映しながら、エミリーは安堵するように胸を撫で下ろした。
「翔太、もう全員集合したぞ。…翔太ァ!聞こえてんのか!」
ベンチから立ち上がって丘の上の翔太に呼びかけるのだが、
「うん。恐らく今日は乙女座の声が聞こえる日だよ」
と返答が返ってきた。迅は思わずその場で転ける古風なアクションをかました後、
「んなこと聞いちゃいねえよ!全員集合したから来いよって言ってんの!」
丘の上まで走っていって、天然星釣り人間を星空の世界から連れ戻すべく叫んだ。すると翔太は、
「ええ、それならそうだって早く言ってよぉ」
などと呑気に答えた。だからさっき言ったってば、と迅は呆れ顔でもって指摘した。
「で。アウトドア向きの服で来てって言われたわけだけど、何するの?」
麻望がブランコの上で腕を組んで、そう問いかける。ジャージやTシャツなど、今日の面々はそれぞれ動きやすい服装で集合していた。
「雲の観察と記録をやりたいなと思っていたんだけど、今日は快晴になっちゃったから中止なんだ。―――君もこの天気は予測できなかったみたいだけども」
翔太が麻望に一瞥くれて、ため息をつく。
「そんな便利なものじゃないのよ。お役に立てなくて悪かったわね」
麻望はふん、と顔を背けてしまった。
「そしたらさ、麻望歓迎会で良いんじゃね?入隊おめでとうございますって」
迅が拍手の動作をしながら提案する。それでも良いかな、と翔太はつられて笑った。
つい先日のことだった。麻望が突然、天候観測隊に入隊させてくれと頼み込んできたのだ。何故急に、何が目的で、と皆が質問する隙を与えぬまま、天気を予測する能力があるのでと彼女は一言告げ、良いでしょう?と逆に問いかけた。有無も言わせぬその勢いに、いや良いですけど…としか答えようが無かった。
初めは麻望の言う能力について疑念を抱いていた迅と翔太―――エミリーはそもそも疑念どころか何を考えているかすら分からないのでノーカウントだ―――だったが、あるとき麻望がふと思い出したように、
「…時間は分からないけれど、明日の夜、局地的な雨が来るわ。アンタ星釣りがどうとか言ってたわね、表に出るのはやめた方がいいわよ」
と翔太に忠告したのだ。
実際に麻望が予言した夜は予報と風向きが変わって雨雲が流され、雨に見舞われてしまった。それが昨晩の出来事であり、だからこうして今、塵一つないすっきりとした青空を拝めているわけである。
「飯でも食いに行くか?まだ昼ごはんの時間じゃないけど」
「僕、まだお腹すいてないなぁ」
「そうなんだよな」
うーん、と腕を組んで思案する男二人組。
「当初の予定の、ピクニックでも良いのではないでしょうか。折角レジャーシートもありますし、それに…」
エミリーがそう発し、ちらりと麻望の方を窺った。
「…何よ」
「いえ、何でもありません。とにかくピクニックにしましょう」
麻望の怪訝な顔を見、エミリーはもう一度提案する。
「そうだね、そうしよっか。今日はのんびりするぞ~」
翔太は賛同しながら大きく伸びをしたのち、自分のリュックサックからレジャーシートを引っ張り出してきて、
「これで平らなところに陣取ろうか!」
と、三人に呼びかけたのだった。
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「えい!」
「だから何っ、でそんな角度キツいショットばっかりっ、打つんだよ!」
「やー!」
「お前少しは加減しろ―――!」
翔太は迅とバドミントンを始めていた。翔太が鬼コーチかと見紛う程の急な角度のショットばかり打つので、迅は前後左右に振られまくり、野原にへたり込んでいた。
「迅、やっぱり瞬発力すごいんだねぇ」
「あざす、で、でも持久力はないんです…勘弁してください…」
「はっはっはっは~」
上機嫌に笑う翔太と、へろへろになっている迅。そんな二人を見ながら、エミリーと麻望はレジャーシートの上に体育座りで並んでいた。
「ほんとバカね」
「馬鹿、なのでしょうか」
「ああ、あれよ、語弊があったわね。アタシが言うバカっていうのは頭が悪いって意味じゃなくて……」
「はい」
「英語で言うなら…クレイジー、とか」
「crazy…I see」
エミリーは納得したように頷く。お嬢様のアンタがそんな言葉に納得しちゃダメでしょ、と麻望は心の中でツッコミを入れるが、エミリーは知るよしもない。彼女の視線の先では、再び縦横無尽に飛び回るシャトルに迅が振り回されていた。
「私自身あまり運動は得意ではないのですが、楽しそうに運動をしているお二人を見ていると朗らかな気持ちになるのです」
エミリーがそう言って見つめている二人は、はしゃぎ回っていて子供っぽい。
「あー…」
麻望は、自分は子供っぽい人間が好きではないと答えかけたが、もう一度勝負だ!と跳ね起きた迅の笑顔を見て、
「…そうね。悪くないかもね」
と腕を組むのだった。
麻望には、エミリーが何を考えているのかさっぱり分からない。眼前でバドミントンに明け暮れるバカ二人がこの無機質な少女と学校で話しているのを外野から見てはいたものの、彼らに理解できないことが自分に理解できようかとまで考えていた。しかしこうして面と向かって話してみると、意外や意外、感情の乗った言葉が次々と飛び出してくるではないか。麻望は予想と現実のギャップに人知れず面食らった。
以前自分が半ば強引に入隊した際も、迅と翔太が戸惑う中、ようこそいらっしゃいましたと彼女だけが温かく―――生気がまるで伴っていないという点では一番冷たいのだろうが、言葉は確かに温かかった―――迎えてくれた。そのとき麻望は、エミリーがただ見てくれが可愛いだけで取り合われていると思い込んでいたことを反省した。今はむしろピュアな感性の彼女に対して語弊のないように言葉を伝えることに専念しており、なるべく物腰も柔らかくするよう心掛けている。
「私、気になっていることがありまして」
エミリーは麻望の方に向き直って、そう言った。なにが、と麻望。
「迅君はあんなふうに体育の授業でも楽しそうにしていますし、運動されているときはまるでlike a fish in water、水を得た魚のようです。しかし…」
エミリーは再び迅の方を見遣る。迅はギブ!ギブアップです!すいません!と、再び野原の上でへばっていた。
「彼は何故、同じくらい好きであろう陸上競技のことで笑顔が曇るのでしょうか」
足を抱え込む体勢で座っていたエミリーは、気のせいだろうか、その腕に込めた力をぎゅっと強めたように思えた。麻望ははっとして彼女の顔を見つめるのだが、やはり、というより相変わらず、彼女は無表情のままだった。
「迅君は以前、陸上部の部長だった…今も部長のままだと聞きます。しかし降矢君との会話を聞いていても、彼が陸上部に参加しているとは到底思えません。何かあったのでしょうか」
「……」
麻望の側も迅と聡子の会話を扉越しに盗み聞いてしまっているため、迅が陸上部に復帰できていないということは分かっていた。翔太も何かしら感づいているのだろうか。ラケットを振り回している彼に目を向けるが、そんなことでどうする!立ち上がるんだ!早くしろ!と野太い声で叫んでいて、あのバカに限ってまさかね、と肩をすくめた。
「アタシもよく知らないわ。あれだけ迅と仲良くしてたアンタが知らないって言うんじゃ、多分当事者…陸上部の人間以外誰も分からないでしょうね」
「左様ですか」
エミリーはふぅ、と短めにため息をつき、ところでと仕切り直す。
「あくまで私の予想ですが、白和泉さん、その荷物は皆さんの為に用意したお昼ご飯ではありませんか?」
「なっ……!?」
あまり荷物を持ち歩かないはずの麻望は、大きなトートバッグを持参していたのだ。確かにその中には、四人分と思って作ってきたサンドイッチやら切ったリンゴが入っていたが。
「ちょっ、な、何で知ってんのよ!?」
半ば悲鳴のような声を上げて、あからさまに狼狽する麻望。迅と翔太も異変に気付き、怪訝な顔でこちらを窺っていた。
「白和泉さん、私はジャパニーズ・策士です。策士なので、迅君にメシに行こうぜと提案して頂いた時、上手くピクニックに誘導したつもりです。どうでしょう」
「ど、どうでしょう、って…ありがた迷……」
小声でそう報告する英国産ジャパニーズ策士とやらにありがた迷惑だ、と言いかけたが、素直にならなければこの女には真意が伝わらないんだと、取り繕いたがる我が身に必死に鞭を打って、
「…かっ、かんしゃ、してます…」
と、震えた声で告げた。
「どうした、何かあったのか?」
迅がそう問いかけながら、翔太と共にレジャーシートの上の二人の方へ近付いてきた。
「何でもな…」
麻望が答えようとしたが、
「お二人とも、お腹がすいていませんか。お昼にしませんか」
と、エミリーに先を越される。
「お昼って言っても持ってきてねぇし…翔太は?」
「僕も持ってきてないけど…」
迅と翔太はうーん、と首を傾げている。
「白和泉さん、今ですよ」
エミリーがその細い腕で軽く麻望を小突き、小声で諭す。
「あーもう、名字で呼ばれるのは嫌いなの、麻望で良いっつの!」
麻望はそう叫びながら思わず立ち上がってしまい、一気に注目を浴びることになった。迅が、翔太が、エミリーが、麻望に視線を向ける。彼女は全員から注目されているその状況にとんでもなく赤面しながら、
「…お昼…作ってきた、けど…食べても……良いわよ…」
と、絞り出すような声で訴えたのだった。
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「ん~!美味しい!お前一人で作ったのか、これ」
サンドイッチを頬張りながら、器用だな、と迅。翔太も感心しながら食べ続けている。
「そ、そうよ…ちゃんと作るときはゴム手袋使ったし、安心して食べなさいよ」
「麻望が食べないと勿体ないだろ、ほら」
「……わ、分かった…」
迅に促され、昼食の輪におずおずと入っていく麻望。
「これは、初めて見るのですが…卵、ですか?」
器用なものだ、麻望が自分で作ったであろうだし巻き卵を見つめながら、エミリーが問うた。
「だし巻き卵だよ!すっげぇ、俺一度も成功したことないんだけど」
迅がぱぁっと顔をほころばせながら、麻望を振り返る。別に大したことない、と麻望は答えたが、これを成功させるべく練習にとんでもない数の卵を消費したことは内緒だ。
「悔しいけど美味しい…作り方教えて欲しいなぁ…でもそれも癪だなぁ…」
だし巻き卵に手を出す、唸りっぱなしの翔太。素直に美味しいって言えよ、と迅に肩を引っぱたかれる。
「良かったですね、白和泉さん…いえ、麻望さん」
エミリーに小声でそう囁かれ、眉間に皺が寄る麻望。普通の人間ならこういう時にからかうような笑顔を向けてくるのだろうが、彼女は生気を宿していないかのような瞳で、無表情で、抑揚のないソフトな声でそう告げるのだ。怒るにも怒れない、何なんだこの女はと、麻望はただただ膨れるしかなかった。
「うわぁ、こんなのんびりした休日にもランニングなんてご苦労様だねぇ」
ふと、翔太が顔を上げて、閑静な公園内を走る男―――先程から走り始めたのだろうか、四人が昼食をとっている間は姿が見えなかった―――を見ながらぼんやりと呟く。
「こんな日も走り込んでるなんて、相当真面目な陸上経験者なんだろうな」
迅はそちらを見ることなく、ごろ寝をしながらリンゴを食べていた。お、塩水の味、と彼は呟く。
「経験者というか、普通に現役の高校生な気がするけど」
麻望もリンゴを頬張りながら、その男を見る。そして、塩入れすぎたかしら、と呟く。
そのランニングをしている細身な高校生?は、真っ赤なジャージを羽織っている。上下とも長袖な上暑苦しい色をしていて、何もこんな日差しの強い日にそんな格好をしなくても、という外部からのツッコミを待ちわびているかのような服装だった。彼はイヤホンをしており、こちらの声は聞こえていないのだろう、ランニングシューズで黙々と地面を踏みしめていた。
公園内に設けられたランニングのコースは円状になっていて、彼がもう少し進めば否が応でもだらけた高校生四人組が目に入る位置につく。
「あれ、今、こっちを見た気がする」
翔太がその赤い男を注視しながらそう告げた。これだけだらけてるもんな、と相変わらず迅はごろ寝をしたままだ。
「アンタ、眼鏡なのにあんな遠くの人のこと見えるのね」
「まぁこれ、伊達眼鏡だし、僕元々裸眼だから」
「…え、そうだったの」
麻望の問いかけに、眼鏡を外してレンズ―――どうやら度が入っていないらしい―――を拭きながら、翔太があっさりとそう答える。
「えっ、うわ、なんかすんごい怖い顔してるよ」
翔太がぎょっとしながらその男の方を前のめり気味に見た。翔太の視線の先で赤い男はランニングの足を止めて歩いており、きゅっと眉間に皺を寄せていた。どうやらこちらを睨み付けているようだった。
「此方に向かってきているのではありませんか?」
とんでもなく目の悪いエミリーには眼鏡のレンズ越しでもその表情までは窺い知れなかったが、淡々と現状を報告する。男は一歩一歩、着実に距離を詰めてきている。
「で、でもランニングのコース的にこっちに来てるように見えるだけじゃ…」
麻望は怯えながらも、都合の良い解釈でもって迫ってくる男を迎え撃とうとした。
「さっきから考えすぎだって!疲れて足が止まってるだけだよ、見ず知らずの人間のこと急に睨んでくるとかどんなヤバい…」
ヤバいやつだよ、と迅が言い切らないうちに上体を起こしてそちらを見たのだが、その顔を見るなり、彼は目を見開いて愕然とした。
「…おいおい…まさかこんな所で会うとは…」
迅の口から、あからさまに動揺した声が漏れる。
「…迅君?」
エミリーの呼び掛けにも応じずに、迅はただ真っ直ぐにその赤い男を見据えていた。迅の視線に気付いたらしい男は、彼の方を穴が開くほど見つめながら、ぐっと拳を握りしめ、遂に観測隊の面々の前までやってきた。遠巻きに見ると分からないが、近くで見ると比較的幼い顔立ちをしており、確かに高校生だ。迅以外の三人は、固唾を呑んでその様子を見守る。
「久しぶりだな、黒羽。去年の夏以来か?忘れたとは言わせないぞ」
真っ赤な男が、座ったままの迅の方に影を落としながら告げた。
「あー…部外者が居るし、怖い顔しないでくれ」
その影の中から、迅が真剣な声色で諭す。
部外者、というところで立ったままの男が見下ろす形で三人に目をやった。気圧されたのか、翔太が「ひぇ〜」と間抜けな声を出し、静かにしなさいよ!と麻望に小突かれた。
「せっかくの良い休日なんだ。俺の事はいくらでも恨んでもらって構わないけど、こいつらを巻き込んで悪い雰囲気にするのだけはやめてくれないかな」
迅は立ち上がると、ジーンズのポケットに手を突っ込みながら、庇うように三人の前へと歩み出た。
「…っていうか、自己紹介くらい、したら?急に来てそんな決闘の前触れみたいなことされたら、誰だって怖がるに決まってるだろ」
苦笑いしながら迅がそう促すが、男の顔はほころばない。彼は眉間に皺を寄せながら三人の方に視線をやって、
「仁井田颯人。出身中学は黒羽と同じだ。灼鷹高校…ここから少し離れたところにある高校で、陸上部の主将を務めている」
と手短に、ぶっきらぼうに答えるのだった。そうして、話があるから着いてこいと迅に呼びかけるなり、すたすたと歩き出した。
「おい颯人、待てよ!…悪い、ちょっと待っててくれ。すぐ戻ってくるから」
迅は呆然としたままの三人にそう告げて、青空とは対照的に赤く揺らめく颯人の背中を追いかけて走り出した。
「迅、大丈夫かな…」
「……まぁ、待ちましょ」
麻望は翔太を諭しながら、迅の後ろ姿を見つめるエミリーの唇がきゅっと結ばれ、腕に添えられた手に力が込められるのを見逃さなかった。
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「なにもそんな怖い顔しなくたって良いだろ、一年ぶりなのに」
モザイク状に広がる木陰の中で、迅は颯人に呼びかけた。近くの自販機で買った冷えたコーラの缶をベンチに座った颯人に渡そうとするのだが、要らない、とあっけなく撥ねのけられる。
「一年ぶりだからこそだ。長い間陸上から遠ざかって何をしているのかと思えば…あんな奴等と馴れ合ってぬるま湯に浸かっていただと?俺を馬鹿にしているのか」
隣に腰掛けた迅の方を振り返らずに、颯人はぴしゃりと言い放った。
「馴れ合いって…何もそんな酷い言い方しなくても…」
迅は苦い顔で、しかし強く言い返すこともできずに項垂れる。そんな迅を目だけ動かして窺い、はぁ、と短くため息をつく颯人。
「…一年前、突然大会を棄権したお前に何があったのかは知らない。しかしそれが何なんだ?いつまでも佐倉や降矢に迷惑をかけたままで、お前がああやって馴れ合いを続ける理由になるとでも?」
「……知らないなら口出しされる義理も無いよ」
ぼそ、と迅が言い返すと、
「何だと?」
颯人がそんな彼の方を睨み、凄んだ。
「知らないなら黙ってろって言ってんだよ」
迅は俯いたまま、ぼそぼそと反論を繰り返すだけだった。颯人はそんな迅にしびれを切らし、彼の首根っこを掴んで無理矢理向き直らせ、
「ぐうたら寝転んでるお前に言い返す権利があるとでも思ってるのか!え、おい!」
と、鼻頭に食らい付くかと言わんばかりの剣幕で迅を怒鳴りつけたのだ。迅は颯人にがくがくと揺すられる一方だったが、遂に聞こえる程大きく舌打ちをして、
「お前こそ事情も知らないくせに他人に口出し出来るほど偉いのか!お前は俺の何なんだよ!?」
颯人と全く同じふうに、彼のジャージの襟首を引っ掴んで凄んだ。流石の颯人も気圧されたのか、迅のTシャツから手を放すと、唇をぎゅっと結んでされるがままだ。
「…他人のこと馬鹿にするだけして、挙げ句俺の事情は何も知らないまま非難してくると来た…すぐ凄んだりして敵作ろうとするの、お前の一番悪い所だぞ、颯人」
事情を何も知らない、というくだりで、颯人は決まりが悪そうに目を背ける。
「……何も話してくれないお前が悪いんだ」
急に気弱になる颯人に放せ、と訴えられて、迅はあっけなく彼を解放する。
「…俺はあれから一年待った。灼鷹で部長にもなったし、部員を育てるのに尽力しなかった日はなかった。ここまでやってきたんだ、答えが欲しい」
押し殺すような声で、俯いた颯人は拳を握りしめながら、懇願した。
「…悪かったよ、酷くしたりして」
そんな颯人の腕に手を添えて迅は謝ったが、触るな、と撥ねのけられてしまう。
「陸上部に行けなくなった理由、今まで言えなかったんだ。お前にもだけど、あいつらにも」
あいつら、と迅が指したのは、遙か遠くで固唾を呑んで待ち続けている三人だった。颯人はそちらをちらりと振り返ったが、そうか、とため息をつくだけだった。
「そうだな…今までお前に悩みの相談はされても、俺から相談することなんて無かったな。それは俺がバカだったから、単に考え無しだっただけだよ」
そう自嘲して、迅は三人の元へと歩み始める。何処へ行く、何のつもりだ、と颯人は呼び止めるが、
「来いよ。お前にも、あいつらにも、話さなきゃならないから」
と、迅はその足取りを緩めることなく答えるだけだった。