2-02 それは、あなたのため
「はあ、お嬢、今日もお美しいです」
先日の許嫁騒動からというもの、エドワードは忠実な番犬のようにいついかなる時もエミリーから離れようとせず、彼女の横でエスコートを続けていた。朝は爺やの車に乗ったエミリーが現れるのを校門の前で待ち構えていて、当人が現れれば「荷物をお持ち致します」と宛ら高級ホテルのドアマンのごとく丁重に彼女をもてなしてみせた。移動教室の際も下校の際も、彼の誠心誠意のおもてなしは滞りなくおこなわれた。
今日とてその例外ではなく、エミリーはエドに歯の浮くような口説き文句を囁かれながら教室へとやってきた。よくもまあ毎日毎日お可愛いお美しいなどと褒めそやせたものだと、迅は教室の最後列の席でその様子を眺めながらげんなりしていた。
エミリーは座席の迅の姿を認めると「あ」と口を僅かに開いて、
「お早う、迅君」
明けの空で明星が囁くように穏やかな朝の挨拶を済ませた。
「おはよ、エミリー」
対して迅は、力なくひらひらと手を振って応えた。何故なら、
「チッ」
エミリーにたった一言挨拶を返しただけで彼は機嫌を損ねるからだ。現に遠く離れた迅の耳に聞こえるほどの大きな舌打ちをしている。しかしすぐさま表情を繕ってしまうと、
「ささ!此方にどうぞ、お嬢」
迅を背中で退けるようにしながら―――迅とエミリーは席が隣同士だ―――彼女の椅子を引いてみせた。
「では、僕はこれにて失礼致します」
エドは自分の胸に手を当てて頭を垂れると、
「黒羽!お嬢に手を出してみろ、絶ッ対に許さんからな!」
振り向きざまに凄まじい剣幕で迅を叱り飛ばすのだった。同じ旨の説教を受けたのはこれで何回目だろうか。は〜い、と苦笑交じりに迅が応じると、よろしい!などと勝ち誇ったようにふんぞり返ってその場を去るのだった。
「迅君」
エミリーが小声で迅の名前を呼んだ。なに、と彼女の方へ耳を近づけることもなく―――去り際であっても相変わらずエドはエミリーの方へ意識を集中しているので、追い討ちをかけられたらたまったものではない―――力ない返事を寄越す。
「エド君は、どうして迅君のことがお嫌いなのでしょうか」
二人の視線の先で、エドはびくつく周囲の生徒に構わず、どっかと自分の席に腰を下ろした。
「さあな。あいつが転校してきて初めて会ってからずっとこの調子だよ」
腕を組んでふんぞり返っているエドを見やりながら、生徒たちが何やらひそひそと囁いている。彼らは期待や興味というよりむしろ恐怖と疑念の入り混じった目を向けているようだった。
「俺があのとき図々しいこと言ったからかな」
エドの背中は、屈強な外国人ですと自己紹介しているような大きな背中だ。剣術を習っていると言っていたし、あの仰々しい騎士服の下は筋骨隆々なのだろう。
「迅君は徒に人から嫌われるような人ではありません」
毎日あれは流石にやべえよな、と迅たちの後ろを通り過ぎざまに男子生徒のグループがぼやいた。
「そりゃどうも。そうだと良いんだけど」
ふとエドが振り返り、生徒たちに一瞥くれる。もぞもぞと何かを口走っていた彼らは慌てて口をつぐみ、瞬く間に教室の外へと散っていった。
英国産の顔のいい男が騎士のような出で立ちで現れ流暢な日本語でもって自己紹介をしてみせたのだ、エドワードのファーストインプレッションはD組にとって絶大なものだっただろう。
それだけならまだしも、クラス中の興味関心をかっさらった直後にエドはエミリーの許嫁であると声高に宣言した。春からエミリーを陰ながら好いていた男たちは阿鼻叫喚。エドに一目惚れした女たちもそれ相応のショックを受ける。とにかく生徒にとって少なからずショッキングな出来事ではあったが、この二年D組というクラスは彼のことを友人として受け入れる準備をしていたはずだった。
しかし今やクラス中が彼の横暴な振る舞いに驚き、あまつさえ恐れを抱き始めている。彼の誠意ある立ち振る舞いはエミリーのためのものであり、決して自分たちのためのものではないからだ。
D組クラッシャー、いやD組デストロイヤーとでもいうのか、彼のことをD組の面々はまるで腫物でも扱うかのように徐々に避けつつあった。
当の本人を避けられるならそれに越したことはない、と迅は思う。エドにとっての迅はただ目が合っただけで敵意を向けられる要注意人物となっている。渦中のエミリーの気持ちはいざ知らず―――いつだって無表情なので、もとより彼女は何を考えているか分からない―――、少なくとも迅の側はこの異常な日々に疲れていた。
「すごい疲れた顔してるね〜」
翔太がいつものように弁当を人の机に広げて窓の外の様子をゆるりと見に行った後、とてとてと戻ってきた。
「疲れてるように見える?」
頰をむにむにと摘んで左右に引っ張り、迅は力なく問うた。見えるよ、と同じ動作をむにむに繰り返しながら翔太は応じる。
「エミリーちゃんの周りをおっかねえケルベロスが徘徊してるのがいけねえんだよ!」
いつからいたのだろう。迅の横に腰掛けた侑斗が、購買のメロンパンを頬張りながら大声で叫んだ。いつからいたのと翔太が問うと、さっき来た!とパン生地混じりのもごもごとした返答が返ってきた。
「ああいう横柄でうざったいヤツ、大っ嫌いだわ」
いつからいたのだろう。麻望がいちご牛乳のパックを啜りながら、しかめっ面でぼやいた。いつからいた?と迅が問うと、さっき来た、とため息交じりの返答が返ってきた。
「D組もそうだけど、これは天候観測隊にとっても由々しき事態だよ。エミリーはここのところ、エドくんがバリケードを張ってることで例会に参加できなくなってる。だからデータの取りまとめが出来なくなっちゃったんだ」
「俺だってエミリーちゃんのお顔拝んで毎日やる気出してたのに、最近は野郎の背中と尻しか見えなくて明日にでも不登校になりそうだよ」
「ていうかいちいち行く先々でエスコートしてんのウザくない?階段で横並びで歩かれたら邪魔なんですけど」
「分かる、てかあいつ背丈が高いから威圧感もあるしさ、―――」
ああでもないこうでもないと忙しない玉入れ競争のように、各々が抱えた不満が目の前の机の上にぶちまけられた。当然受け止める籠もないので、玉の行き着く先は机上か、その下に待ち受ける硬いコンクリートの床だ。
迅はとめどない不平不満の洪水を、対岸の火事とでもいうようにぼんやりと見つめていた。迅は愚痴が得意でない。誰かのことを力一杯非難するとき、見えない壁から非難が跳ね返ってきて自分の心をきりきりと押し潰しに来るようで気が引けるのだ。しかしながら不平不満の洪水に対して我関せずの立ち位置に徹して自分の意見を言わずに黙り込んでいることも卑怯であると、心の内では自分を責めていた。たとえ周囲の愚痴を止める勇気を持ち合わせていなかったとしても、せめて自分の意見くらいははっきりさせておきたい。自分はエミリーがこの席に居ないことをどう思っているんだろう―――
「…それで、迅はこの状態についてなんとも思わねえの?」
タイムリーに、侑斗が菓子パンを頬張りながら問うてきた。彼は先刻から甘いパンしか食べていない。
「え?…えーと…」
いざ求められると、うまく言葉が出てこなかった。だんまりを決め込んでいた迅が口を開いたので、一同は次の言葉に注力している。
さて、どうしたものか。この場に居ないエミリーの顔を思い出そうとしたが、今となってはすぐそばにエドの綻んだ顔が浮かぶ。
―――そうだ、エドはエミリーの許嫁なんだ。だからエミリーの側にエドが居るのは当然のことで、彼がどんなに横柄な振る舞いをしていようが、親同士の取り決めで定められたことなのだから、赤の他人である自分があれこれ文句をつけるのはお門違いだ。
「まあ…しょうがない、かなぁ」
口を開いてはみたが、思いの外沈んだ自分の声に驚いた。視界の端の侑斗の顔が引き攣る。
「許嫁ってのが本当なら、今まで側に居られなかったぶん毎日尽くしたいと思うのも仕方ないだろうし」
続いて苦笑いが生じた。派手な沈みっぷりを笑顔で取り繕おうと思ったせいかもしれない。
「だから許嫁が居ることだって、相手に大切にされてることだって、友達として喜んでやるのが筋だろ」
「なんだよそれ…」
「バッカじゃないの!」
侑斗が何か言いかける前に、麻望が机を思い切り叩きながら叫んだ。前のめりになって睨みつけてきたので、威圧感に思わずぎょっとしてしまう。なんだか最近こんな調子で怒鳴られてばかりだ。
「あの子はアンタを信用してんのよ。相変わらず無表情だしなんにも考えていないように見えるけど、きっと今の状況に困惑してるに違いないのよ。なんとかしなさいよ」
力説する麻望に、迅は困惑を隠せない。
「…エミリーが?」
「そうよ!そんなことも分かんないの、これだから男って嫌だわ」
ぷりぷりと怒る麻望に聞こえないほどの小さな声で、僕も君みたいなやかましい女の子きらいだ、と翔太が零した。
「仮にそれが本当だったとしても、近づいたところであいつに噛み付かれるのが関の山だろ」
くわばらくわばら、と迅は顔の前でひらひらと手を振った。
「意気地なし、サイテー」
麻望は呆れたような表情で椅子に座りなおすと、乱暴にいちご牛乳を啜った。ズゴ、と残量が少ないことを訴えるように紙パックが鳴く。最低でも良いけど、と弱々しく迅は応えたが、
「とにかく」
眉間に皺を寄せまくった麻望がぴしゃりと言い放った。
「迅、アンタはアンタがやりたいようにしなさい。このままでいいのか、よくないのか、アンタが一番よく分かってるはずだから」
そこまで言うと麻望は椅子を押し蹴って立ち上がり、ぷりぷりと何処かへ大股に歩いて行ってしまった。
「あいつは迅の何なんだ?」
侑斗は、怪訝な声で零した。
エドワードは、周囲から疎まれてはいるがやはり優れた能力の持ち主だった。母語である英語はもちろんのこと日本語も流暢で、加えて頭の回転も早く、授業中の活躍の機会も多かった。
「このクラスの留学生は頭が良すぎやしませんかね」
授業の際に数学の教員である和田積夫はぼそりと零し、君らももっと頑張りなさい、と生徒を叱咤したものだった。
何より極め付けは、その身体能力。迅の土俵である短距離走では敵いこそしなかったが、彼の運動神経は同世代の男子のそれとは一線を画していた。
ゆえに彼は圧倒的な実力差の誇示により周囲を黙らせる力を持っていた。努力の賜物か、天性のスキルかはいざ知らず、持ち合わせた強大な力にスパイスとしてカリスマ性を加えたような人間だった。
それだけならばさして迅にとって悩みの種になるようなこともなかった。問題は、その圧倒的な強さを持った男が自分に敵意を向けてくることなのだ。
幸福なことに、迅は他人から拒絶されたり嫌われたりしたことがなかった。これまでに理由のある喧嘩なら幾度となく―――つい最近も小競り合いになった―――仁井田颯人と繰り広げてきたが、それは互いの志が同じだったからこそ生じたものであり、最後には必ず和解してきた。ゆえに生まれて初めて理不尽な拒絶に相対し困惑していた。
そして何より、
―――この方は…エミリーお嬢は僕の許嫁だ。
件のエドの台詞が耳にこびり付いて取れないことに驚いていた。
ただ両家の間で決められた事実を言われただけなのに、正体の掴めない靄が胸の内にひしめくことが不思議でならなかった。この不定形の靄に名前をつけるならば不安感、もしくは焦燥感だろうか。一体何に焦燥しているのかと、迅はただ掴めない感情を前に首を傾げるほかなかった。
「迅、それじゃ先行ってるからな」
「おう。後で追いつくよ」
帰りのホームルームが終わるや否や、迅は侑斗が向かうグラウンドとは逆の方向―――階上―――へと歩を進めていた。というのも、
『迅君
ホームルームが終わりましたら、
屋上の入り口の前に来てください。
怖い人に見つからぬよう。
Emily』
というメッセージがエミリーから送られてきたからだ。
隣の席だというのに携帯端末越しに話しかけるなんて水くさい、などと野暮なことは思わなかった。自分とエミリーのやりとりに常にエドが目を光らせているからだ。愛するお嬢が何処に消えたのかまだ気づいていないらしいエドのことをちらりと横目で伺いつつ、迅は屋上へ続く階段の方へと急いだ。
「迅君。来てくれましたね」
「おーす…」
日頃掃除を担当している生徒の仕事が余程適当らしい、埃っぽい空気の立ち込めた階段の先、屋上へと続くドアの前にエミリーは佇んでいた。重苦しい鉄製のドアに設けられた窓の向こうから差し込む薄橙の柔らかな光の中で、殊更に柔らかな声でもってエミリーは迅のことを呼んだ。
「それで、話って何?」
エドに後をつけられていないかと後ろを振り返りつつ、迅は階段の途中という中途半端な位置から投げかけた。こんな些細な日常会話でさえも秘密裏におこなわなければならないのかと、むしゃくしゃした気持ちごとポケットに手を突っ込んでしまいながら。
エミリーは目を伏せて足元の埃っぽいタイルを見やったのち、ふっと真っ直ぐに迅の方へ向き直って口を開いた。
「単刀直入に申し上げますと、この頃お昼にご一緒させていただくことも、一緒に帰ることも無くなりましたね。春の頃のようにご一緒させて頂きたいのですが、迅君はどうお考えですか?」
と、一息に述べた。言葉通りまさしく単刀直入な問いで、予め台詞を用意していたかのようだった。エドに見つかる前に事を済ませる魂胆なのだろうか。しかし、
「ど…どうって、…」
ストレートな問いをぶつけた少女に対し迅は返答に詰まってしまった。
私と一緒にお昼を食べたり登下校することに関してどうお考えですかと聞かれれば、もちろん以前のように共に下校したり、下らない話をして過ごせる状態でいたいと思っている。ただそれをはっきりと言葉にしてしまうと、何だか自分はとってもエミリーのことが好きですと言っているような気がしてしまってむず痒い心地がした。それに、
「…エドのこともあるし…」
仮に一緒に帰ることになったとしても、あの血気盛んな男がそれを許すはずはない。発見されるや否や、彼は修羅の如くに凄まじい剣幕で怒鳴り散らし、エミリーから迅のことを無理矢理にでも遠ざけるだろう。そう、結局は以前の状態に戻りたいと告げようが告げまいが、自分がエドに噛み付かれる未来は同じなのだ。
「まあ…無理なんじゃないか?なんて」
というわけで、恥じらいと諦観により、弾き出された答えは消極的なものとなった。後ろ髪をくしゃくしゃと掻きながら、エミリーの表情もろくに見ようとせずに迅は答えた。
「……そうですか」
どうしたことだろう。聡明なエミリーにしては珍しく、返答までに不自然なタイムラグがあった。何事かと迅が顔を上げると、
「…………」
変わることのない無表情の中に、わずかに、本当にわずかに、まるでダンボールの中の捨てられた犬の瞳のような、もしくはひどい点数のテスト用紙を教師から返答された時の頭に血が上って瞳孔が開いた時のような、名状しがたい張り詰めた空気を感じた。
「ご、ごめん」
見たことのないその表情とガラス玉の瞳の色に気圧され、迅は思わず詫びる。
なんだ、あの張り詰めた無表情は。一体そんな表情を見せるエミリーは、何を考えているんだ。分からない無機物少女の感情が、益々分からない。
「…いいえ。なにを謝ることがあるのですか。迅君は何も悪くないのです。何も」
エミリーはゆっくりと迅と同じ位置まで階段を降りてくると、迅にそう告げた。そして、
「では質問を変えてもよろしいですか」
と、再び問うた。
迅は、息を飲んだ。自分を真っ直ぐに見据えるエミリーの瞳の色が、青い宇宙の果てで渦巻く銀河を宿していたからだ。少女の瞳に宇宙が満ちるときは、少女の感情が強く波打っている。感情の名前こそ言葉にしないが、それでも強いその思いを乗せた言葉を、少女が今まさに発しようとしている。言葉を受け止めるべく眼鏡越しのエミリーの瞳だけに注力していた迅は知る由も無かったが、エミリーが身体の側で無意識に作った握り拳は僅かに震えていた。
「迅君は…二学期開始以来続くこの現状に満足していますか。私は、大変もどかしく、息苦しい心地がしています」
そのとき何処からともなく、さあっと、窓を閉め切った屋内に吹くはずのない風が通り抜けた。
一陣の風に頬を撫でられて、エミリーの言葉を聞き届けて、まるで身体が弾かれたような心地がした。いや、実際に肩がびくりと震えていたかもしれない。
―――これは天候観測隊にとっても由々しき事態だよ。
―――迅はこの状態についてなんとも思わねえの?
―――あの子はアンタを信用してんのよ。相変わらず無表情だしなんにも考えていないように見えるけど、きっと今の状況に困惑してるに違いないのよ。何とかしなさいよ。
激しく渦を巻く風の中、これまで周囲から投げかけられた言葉が次々に脳裏を巡る―――
各々が不平不満をぶちまける中自分は押し黙ってばかりで、感情を発露することがなかった。いや、幾度かその機会は巡ってきていたし、自分の中でとっくに答えは出ていた。それを友人たちはおろか、エミリーの前でさえ曝け出そうとしなかった。言うだけ無駄だと思っていたからだ。
それなのに今、もどかしく息苦しい心地がすると口にしながら揺れる瞳で見つめる少女を前に心臓が張り裂けるような心地がした。
―――エミリーも自分と同じだったんだ。
今更何を言っても変わらないのだからやめておけ、と諦観的な自我が押し留めるのも聞かずに、本心が胸を蹴破って表へと飛び出してゆく―――
「…そんなの、俺だってしてるわけない!嫌に決まってる!」
ほとんど怒鳴るような勢いで返答すると、エミリーも気圧されたのか、ぎょっとしたように僅かに背中を反らせた。
「でも…そうやって気に入らないなんてみんなで言ってたら、あいつは本当に一人になっちゃうだろ」
力なく微笑みながら言葉を連ねていた先刻の姿は何処へやら、迅はいつのまにか握り拳を作っていた。
「俺…愚痴が嫌いなんだ。エドが来て以来、みんながあいつの愚痴で盛り上がってる。そういう陰気臭さが、俺には耐えがたいよ」
首を振って、
「だけどあいつの怒りの元凶が俺なら…エミリーと話してる俺なんだとしたら、俺が一歩引いて諦めれば少しはマシになるだろ」
苦虫を噛み潰したような顔で続けた。そして、
「でもそうやって諦めて引いた時、自分も愚痴を言いそうになるのがすごく嫌なんだ。俺はあいつに何もしてないのにどうして、って。だから俺は諦めたくないんだろうし、この現状が気に食わないんだと思う」
と、思いの丈を伝えた。そこでふう、と長いため息をついて初めて、自分が呼吸を忘れるほどに言葉を連ねていたことに気付いた。
「あ…ごめん、一方的に話したりして…」
言いすぎた、と詫びながら恐る恐るエミリーを見遣ったが、何故か彼女の瞳は、きらきらと満点の星空のごとく光り輝いていた。え、と迅が間抜けな声を出して目を離せずに固まっていると、
「ガッテンショウチ。そして迅君、あなたはやはり、何も謝ることなんて無いのです」
エミリーはその細い身体の前で小さな握り拳を作って、胸の前に突き出した。ガッツポーズの姿勢だ。
「な、何を承知したの?」
「お構いなく。名残惜しいですがお話はこれにて終了です。迅君は気にせず、グラウンドをくるくると走り回っていてください」
エミリーが迅の背中を両手でぽんと押し、階下に向かうよう促す。とん、とん、と2歩、階下へと迅の歩が進んだ。
「…失礼。くるくる走り回るのは、長距離ランナーの仕事ですね。ではDouble O Sevenの放つ弾丸のように、あの砂を蹴ってきてください」
ダブルオーセブンって何?と戸惑いを隠せない迅だったが、エミリーは一方的に別れを告げる。
「御機嫌よう、黒羽部長。部活に参加してください。また明日」
「お、おう。取り敢えず分かった。それじゃまた明日な、エミリー」
急な解散に首を傾げながらも迅は別れを告げると、軽やかな足取りで階下へと急いだ。
「Bye bye, Blackbird」
エミリーはその背中に向かって手を振った。
迅の姿がすっかり見えなくなってしまうと、母語である英語でもってそらで呼んだ。
「…エドワード。其処に居るのでしょう」
「…たしかに此処に」
すると、廊下で聞き耳を立てていたらしいエドワードその人が階段の踊り場に現れた。
「お嬢、何故僕のことが分かったのですか?」
存在を認知されたことについて心底嬉しそうにエドは問うたが、
「さあ。何となくかしらね」
エミリーはぴしゃりと、無機質というよりむしろ冷酷な返事を寄越した。ふふ、とエドは微笑むと、エミリーの元へ一段一段階段を上り始めた。
「なんでも構いません。貴女に僕の存在に気付いて頂けただけでも、僕は大変嬉し……」
「静かに」
エドがいつものように嬉々として語り始めたのを、エミリーは途中で遮ってしまった。流石のエドも少し驚いたようで、階段の途中で目を見開きながら唇をへの字に結んだ。
「貴方は先ほどの話を盗み聞きしていたのかしら」
エミリーが、エドの目を真っ直ぐに見つめる。
「いいえ。先ほど通りかかっただけです」
エドも真っ直ぐにエミリーを見つめるが、彼にはそのガラスのような瞳に、熱が通っているふうには見えなかった。
「そう。なら…迅君が貴方が言うようなポンコツで、陰湿で、下品な人かどうか確かめられたかも知れないわね」
「ちょっ、お嬢、なんて言葉遣いを!まあ…全て聞いていたとしても、ヤツがお嬢に相応しくない低俗な人間であることに変わりはない」
やけに強気なエミリーに戸惑いつつも、ふふん、と鼻を鳴らしてエドは応じたのだが、
「ッ!?」
気付けばエミリーは、エドより一段上の、ちょうど彼と目線が真っ直ぐに合うところに降りてきていて、かなりの至近距離で彼の瞳を覗き込んでいた。
「矢張り貴方にはreferenceが不足している。にも関わらず、迅君を叩きのめすための結論を急いでいる。言葉でなく力で以て捩じ伏せているだけの、稚拙な論説だわ。一体貴方をそこまで駆り立てるものは何?」
知る由もないし、今の貴方のことなんて知りたくもないけれど、と続ける。
「私は貴方と戦うわ。貴方を捩じ伏せるだけの力は無くても、貴方が自主的に悔い改めたくなるほどの客観的な事実を並べることはできる。貴方の思う迅君への印象が大いなる過ちだと、これからどんなに時間がかかったとしても、はっきりと分からせてあげるわ」
無機質な、抑揚のない、しかし凄味のある声で彼女はエドに言い放った。
「…そ、それってどういう、…」
「さて、今日もエスコートして下さるのかしら」
困惑するエドの声をさらりと躱してしまうと、エミリーは下へと降りてゆき、スカートの裾を摘む動作をしてみせた。
「あ…はい!勿論です、勿論…」
あからさまに動揺した様子で、エドは応じた。
この後彼を待ち受ける「お嬢の粛正」のことなど、知る由もないままに―――