1-03 鋼青の三角標
「いやぁ、今日も良い天気だねぇ、星釣り日和だねぇ」
昼休みが始まってからというもの、シアンの絵の具で枠一杯まで豪快に塗ったキャンバスのような透き通った青空を映す窓に翔太は貼り付きっぱなしだ。
「おー」
どうせ聞いていないだろう、自分の返答に意味などない、と肩をすくめながら、至極適当に迅は応える。だが言われてみれば確かに、今日の天気は突き抜けるような快晴だ。遠くの景色は少し霞んでいて、何とも春らしい様相である。冬から解放された喜びを表現しようとでもと言わんばかりに花という花が咲き乱れるこの頃であるし、きっとこの温暖な気候でピクニックでもしたらさぞかし心地が好いのだろう、と窓の外の強い光から目を背けながら迅は思った。
エミリーを迎えた始業式の日からやれ良く分からん書類のこの欄に名前を書けだの、連絡網に電話番号を載せるだの載せないだの、委員会を決めるだの、怒濤の慌ただしいイベントをくぐり抜けてようやく授業らしい授業が始まった。それと時を同じくして、浮き足立った生徒達も徐々にそのテンションを落ち着かせ始め、去年と同じような生活へと戻り始めていた。例外があるとすれば、部活の世代交代によって代表職に選ばれた生徒が新入生を歓迎するという慣れないイベントに追われて上手く部活を回せず、困憊していることくらいだろうか。太陽はそんな教室を見守るかのように、真っ直ぐに温かな―――むしろ、暑いくらいの―――光を差し入れていた。
「…というか翔太、俺と昼食べるってこと?」
昼休みが始まるや否や、翔太は迅の机の前までやってきて弁当箱を無言で置くなり、宛ら水族館で初めて大きな水槽に直面した幼い子どものように「ふわぁ〜」と歓喜の声を上げながら青い窓へと吸い寄せられていった。その一連の動作には断る隙すら無かった。わざわざ断るようなことでもないのだが。
「え、だって侑斗くんが何処かに行っちゃったから。どうせ暇だったでしょ」
「どうせって…まぁそうなんだけどさ」
侑斗は昼休みのチャイムが鳴ると同時に立ち上がり、急用を思い出しただの女の子に会うだの訳の分からないことをのたまいながら大仰に教室を出て行ったきり帰ってきていない。普段侑斗と昼食をとっていた迅は置いてけぼりを食らったことになる。
「あれ、留学生さんは居ないんだね」
「あ、確かに」
迅の隣の席に、エミリーの姿は無かった。言われてみれば、エミリーは昼食の時間になると何処かへ雲隠れしてしまっている気がする―――
ふと先日見た少女の瞳の残像が迅の脳を横切った。テールランプのように、または振り子のように、その青い光の軌跡が記憶の中で方々へ揺れている。
「何処に行ったんだろうな」
その網膜に映った煌めきを探して頭上に向かって零すが、そこには殺風景なコンクリートの天井が待ち構えているだけだった。僕も分からないや、と視界の外から翔太が返事を寄越した。
「でだよ」
声の方へ向き直ると、翔太が腰に手を当て、どん、と机越しに立っていた。いきなりどうした、と面食らいながらも取り敢えずは話を聞いてやることにした。
「最近、新入生を勧誘している人達がいるよね」
「まぁ、新歓の時期だもんな」
「ってことは、その勧誘している人達は部活に入っているんだよね」
「そりゃ、後輩が入部しないことには部活は続けていけないしな」
「部活!作ろうと思って」
「そうだな、これに乗じて部活の新設でもするか……って、えぇえ!?」
何処へ話が持って行かれるのやら、と一応船には乗ってみたが、まさか部活を作ろうと持ちかけられるとは。彼の船が辿り着いた岸は異界だった。話を聞いてしまった以上、この異界から逃れることはできない。
「ちょっと待て、何でそうなる」
「いやぁ照れるなぁ、そんな褒めないでよ〜」
全くもって褒めてない、と否定するが、そんな彼はどこ吹く風と言わんばかりに、翔太は話を続ける。
「何を隠そう、僕は星が大好きだし、見るのも釣るのも好きだ。えっへん。だから当然天気予報のお世話にもなるわけだけど、それを自分達でしてみたいなぁと思ってて。気候変動グラフの簡単な関数をある程度予測できる程の大きな母数が欲しいんだ。だから僕らでデータ取っちゃいたいなぁって。流石にシミュレーションまでするのは無理だと思うけどさ〜」
もう、訳が分からない。開幕は誰にとっても意味不明だし、後半は頭の弱い迅には簡単に飲み込める話ではなかった。クエスチョンマークだらけになった迅の前で、満足げに翔太はぺかぺかと笑っていた。
「…俺は馬鹿だからそういう難しい話はさっぱり分からないけど、その発想はどっから来たんだ」
何か、何か返さないとこの男はとことんまで暴走するだろうとふんだ迅はなけなしの力で歯止めを効かそうとするが、
「え?思いつきだよ」
このザマである。勝てるわけがない。メルヘンなお星様爆釣(ばくちょう)モンスターめ。まるでつかみ所のない雲のようだ、いっそ雲になれたら身を以てその気圧も温度も飽きるほど測れるだろうに。
「で、迅には部活のこと教えて貰いたいと思って」
「んぇ…今度はそう来る…?」
またもや急激な変化球が飛んできて、思わず迅はがくりとうなだれた。
翔太が言うには、何でも「天候観測隊」という団体を作り、毎日屋上や校庭などで気温や湿度、照度などを測って、その変化と天候の変動における何らかの関係性を見出すような研究がしたいのだという。要は、例えばある日『気温が上昇し湿度が低下した』という場合に、同じ状況の過去のデータと照らし合わせ、翌日が晴れの確率は80%であるとすると、まぁ多分明日は晴れるだろう、といったような予測がしたいようである。
やりたいことは決まっているが、そのやりたいことをやれる環境の作り方が分からないので、迅に助けてほしいと翔太は訴えた。迅はうーん、と唸りつつ、腕を組みながら思案する。
「部活の作り方か。まずは学園公認の部活になるのに、部員を集めないといけないな。というか、活動が活動だし同好会扱いになりそうだな。あと忘れがちだけど、予算のやりくりをするとなると顧問が必要になる」
「コモン?先生のこと?」
「そう。監督してもらうんだよ。…そうだな、部長・副部長・会計さえ居ればなんとか回るし、部員は三人居れば事足りると思いたい」
「三人…ってことは、僕と迅合わせても二人だし、あと一人足りないよ!どうしよう、迅!」
「おい待てって、勝手に俺を入部させるなよ!暇そうに見えるかもしれないけど、これでも……」
俺は陸上部の部長なんだぞ、と悲鳴を上げかけて口をつぐむ。何を今更偉そうにと自分のことが馬鹿馬鹿しくなってしまい、思わず俯いてしまった。
「これでも、何?」
事情など当然解さない翔太が、きょとんとした様子で神妙な面持ちの迅を覗き込んだ。その焦茶色の瞳に見つめられ、迅は弾かれたように顔を上げた。
「い、いや。何でもない。とにかく部員になってくれそうな人をこれから探せば良いだろ」
慌てて返事をする迅を前に翔太は首を傾げたが、まぁいいか、といったふうに息をついて、元気よく頷いて見せた。
――
「……のような関係性を、相加相乗平均と呼びます。不等式の照明に用いられるもので、これを扱った問題もよく出てきます。…」
昼過ぎの数学の講義。温暖な天気と満腹感から来る眠気も相俟って、―――実際、斜め前の侑斗は机に突っ伏して寝ている―――元々勉強がからっきし駄目な迅にとっては退屈の極みだった。ノートをそれなりに取ってはみるものの、何故こんな奇っ怪な記号がここにあって、何故それぞれ意味を持っているのか、そもそも小学校では左側の式の答えを示す記号だとかなんだとか教わったはずの等号の左右に何故式が存在するのか、加減乗除を行うのは左側だけではなかったのか?とか、根本から分からないことだらけで、まるで理解し難い古代文明の壁画を形だけでもと片っ端からスケッチしている発掘者のようで無力感が凄まじい。というか、左端でトランポリンに向かってジャンプして屋根に到達してしまった人の動きみたいなあの記号は何なんだ。何でその下に断りも入れずに数や記号がお邪魔してるんだ。そして極めつけは、等号の上の線が矢じり型に変化しているあの記号。何だアレは。レーシングゲームで踏んだら加速しそうだな。…といったふうに、迅にとってはもう何もかもが分からず、理解しようとか、そういうレベルですらないのである。しかしながら皮肉なことに根だけは真面目なので、余程眠くない限り寝たりはしないし、御利益のない写経を繰り返しているような気持ちになりつつもノートは一応取っている。
「…君、黒羽君」
「えっ、…あ、はい」
囁き声で名前を呼ばれ、その方向に振り返ると、隣のエミリーがこちらを見ていた。
「少し日本語が難しくて、…これはどういう意味なのでしょうか」
彼女が指すノートを覗き込むと、“平方完成”という言葉にクエスチョンマークが書かれていた。
「…ヘイホウ…?何だこれ…」
「やはり難しい単語なのでしょうか」
「いや、多分その…やってる事自体はエミリーには簡単なんだろうけど」
ちょい待ち、と分からないながらも教科書の索引を漁り、その解法が載っているページを見せてやる。すると、
「I got it…なるほど、Completing the square…のことですか、直訳なのですね」
と、理解したような素振りを見せた。迅はよかったと安心しつつも、アイゴド?スクゥエ…?と新たな呪文を頭の中で反芻し始めた。
「ありがとうございます、黒羽君」
「お、おう。勉強は全然駄目だけど、一緒に考えるくらいはできると思いたい」
「カンシャ・カンゲキ・アメアラレです」
そんなやりとりをしていると、
「おや、黒羽君、珍しく騒がしいですね。この問題、解いてみますか?」
と突然数学の教諭―――和田積男という―――が黒板を指しつつ話を振ってきた。
「え!?いや、俺はその…」
目の前で寝てる侑斗はスルーかよ!と心の中で突っ込みを入れながら、全く考えていないどころか考えたところで到底理解できない問いをぐるぐる回り始めた目で追った。当然、分からない。あの黒羽が解くってよ、などとくつくつ笑っている男子生徒や怪訝な顔で見守る女子生徒など、多くの視線が迅に刺さる。
「ミスター和田、申し訳ありませんが」
するとここでエミリーが静かに席を立った。
「私が彼に質問をしておりましたので、彼は全く問いについて考える余地がありませんでした。其方のquestion、私に解かせて頂けますか」
あの留学生が解くってよ、などとざわつく男子生徒やあからさまに驚いた女子生徒の視線が、今度はエミリーへと刺さった。しかし彼女は物怖じ一つせず、その澄んだ青い瞳で真っ直ぐに和田を見つめているだけだった。
「おや、質問中でしたか。いやはや私としたことが申し訳ない。でも青葛さんが良ければどうぞ」
ニコニコと笑いかける和田に対し相変わらず無表情の彼女は軽く一礼すると、エミリーは転校してきた初日と同じに、上履きの音をキュッキュッと鳴らしながら黒板の方へと歩いて行き、とん、とんと足音も静かに教壇へと上る。そして彼女の肌とほとんど同じくらい白いチョークを手に持って、さらさらと流れるように数式を解いていった。
その間、彼女が文字を書いていく音だけが教室内に響き、迅は勿論のこと、生徒一同は固唾を呑んでただ静かに見守っていた。途中、鳥が外で軽快にさえずってみせたが、誰一人としてそちらを振り返る者は無く、皆彼女の手元に集中していた。
エミリーは解答を書き終わるとカタン、とチョークを置いて、
「宜しかったでしょうか」
と和田に向き直った。
「うんうん、完璧です。素晴らしい、お席へどうぞ」
和田から賞賛を受け、生徒からも静かに賞賛の声を浴び、また一礼すると、エミリーは迅の隣に戻ってきた。
「す、す、すげぇえ〜〜〜〜〜〜………」
庇われた迅にはただただ驚くことと、感謝することしかできなかった。
――
「いやぁ、痺れたよぉ、何かの劇を見てるようだったよぉ」
「その場で初めて問題を見て解いたのですが、人に教えているようで楽しかったです」
「初見だったの?ますます痺れるよぉ〜」
講義が終わると、いつの間にか翔太がエミリーの側に来てひたすらに痺れていた。いつもなら怠い眠いと侑斗が大声で叫びながら迅にまとわりついてくる頃合いなのだが、当人はちょっと出かけてきます!とウィンクして立ち去ってしまったので迅は置いてけぼりを食らっている。最近同じようなことが増えているなと、迅は肩をすくめた。
講義から解放された生徒達が作る喧騒の中で、エミリーと親しげに喋る翔太の方を数名の男子生徒が何事だと言わんばかりに訝しんでいる。恐らく、この数日間であんな可愛い子とあんな変な奴が何であんなに仲良くなったんだ!?とでも考えているのだろう。顔がそう物語っている。質問攻めにしたり飽きたり訝しんだり忙しいなと、思わずため息が漏れる。
「もしエミリーが隊員だったら良かったのにね。ね、迅」
「お、おう…」
突然同意を求められ、苦い笑みが漏れてしまった。ぼんやりしている翔太のことだ、すぽーんと記憶が飛んでくれればと思っていたが、観測隊の事は忘れていなかったようだ。迅はしっかり隊員の一人になってしまっているらしい。
「タイイン?memberのことでしょうか」
聞き慣れない単語と自分の名前がほとんど同時に耳に入ったエミリーは首を傾げている。そうだ、と迅は頷く。
「僕と迅とで、新しい部活を作ろうと思ってるんだ。でも部活の新設には三人必要で、人手不足で困ってるところ」
「別に俺も入りたいって言ったわけじゃないけどね…勝手に人手に数えられてるんだ」
翔太は微笑みながら、迅は苦笑いで応じた。
「ブカツドウ…」
そう零すとエミリーは俯き気味になり、何やら考える素振りを始めた。この顔だ、と迅は彼女の表情に注視する。以前、自己紹介の合間にエミリーに話しかけた時も、同じように口元に手をやって俯いていた。今のところエミリーが自動で判断を下す機械人形ではなく何らかの意志を持った存在であると確証を持って信じられるのは、この素振りをする瞬間だけだった。そして彼女が思考を張り巡らせるその瞬間、何かの意志を決定する瞬間、瞳の中の宇宙に数多の星が瞬き、それらはやがて―――
「部活動、大変興味があります。宜しければ、お二人に着いていっても構いませんか?」
彼女の瞳が瞬いたその瞬間、ぱちり、と金平糖のような形になって星々は宇宙から零れ落ちてしまう。
あ、と思わず声が漏れそうになった。自分がふと手に持っていたシャープペンシルを取り落としてしまったときのようなささやかな動揺が、迅の心の湖に小さな波を作った。
「本当に!やったあ、やったよ迅!天候観測隊、ここに発足だぁ〜!」
かたや翔太は迅の動揺など預かり知らぬ様子でその場で飛んで跳ねると、迅の肩を掴んで前後に大きく揺さぶった。
「お、おぉい、脳が揺れる!よかったな、良かったよ!だからやめろ!」
斯くして、あっけなく3人目の部員までもが決まってしまった。
――
「そうしたら…残るは顧問の先生か。だれか暇な人いないかなぁ」
勢いで廊下へと三人揃って飛び出してしまった。その喜びも束の間、早速次の課題解決に向けて翔太は頭を捻り始めていた。教員に暇人なんていないだろと迅はたしなめるが、何か活動したい以上は高校生たるもの大人に多少なりとも付き合ってもらわなければなるまい。形式上は天候観測隊として活動できる状態になったが、正式な団体として認められるためには教員の協力が不可欠だ。
「理系科目を担当されている方にお任せするのが良いと思います。研究に理解もあるでしょうし、もしかすると私たちが活動していく上でのヒントをくれるかもしれません」
珍しく、と言っては失礼だがエミリーが自発的に提案を寄越した。今まで長らく陸上部という運動部に所属してきたせいか、陸上部ならば陸上経験者、野球部ならば野球経験者というように直感的に適任な顧問が思い浮かぶ運動部に対し、文化部の顧問として適任な教師の像というものが検討もつかない。全くの異文化に迅はなるほど、と溜め息をつくほかなかった。
「理系というと、新任の人が居たような気がするなあ。女の人の」
翔太が言うには、始業式に際して行われた新任式―――新しく赴任してきた教員を迎え入れる式典であったが、意識が飛んでいたので全く記憶にない――――で、理系の学問を担当する女性教員が居たというのだ。
「僕、さっきの数学の先生みたいな人じゃ嫌だよ。教え方はそりゃ上手いよ?でも何だかニヤニヤしてて怖いしさ」
さっきの数学の先生、というのは和田のことだろう。確かに日頃からわざとらしい笑顔を浮かべており、皮肉っぽいところもある。だが、プライベートに過干渉してくる自分のクラス担任より遥かにマシだと迅は密かに思った。
「和田さんってバレーとかバドとか屋内競技の部活の顧問やってた気がするし、そもそも無理だろうな。その、新任の先生?に頼んでみようぜ」
意見も一致したところで、一同はD組と同階にある職員室へと向かうことにした。
「わ、私が顧問を…?」
職員室のテーブルの島の一角で声をかけた新任教員その人は、大層驚いた様子だった。
「もう既にどこかの顧問をされてるんですか?」
「いえ、そういう訳ではないんだけど…」
迅が声をかけた女性教師の名前は諸磯那代という。赴任してすぐに2年A組―――D組の三つ隣の、角部屋のクラスだ―――の担任を任されたので、覚えることがたくさんあるのか、彼女は膨大な資料の整頓に困っているところだった。
「む、本題はともかく手伝いますよ。先生困ってそうだし」
「ありがとうございますぅ…」
キャスター付き椅子の上に腰掛けながら深々と頭を下げる諸磯。三人がかりで書類の山を捌いてゆくさなか、このファイルは何処だったっけ、と諸磯はひとり唸っていた。こんなことを考えるのは大変失礼な話だが、とても放っておけたものではないと迅は思った。果たしてこの女性に一人で担任などという大役をまっとうできるのだろうかというところにまで懸念が達したところで、そういえば自分も代表職であったしまるで業務が務まらなかったっけ、と静かに自戒を始めた。人のことなど言えた義理ではなかった。
「諸磯先生は、元々どちらでお仕事されてたんですか?」
同じ種類と思しき資料をファイルに纏めながら、翔太が問うている。
「私は去年まで、ここから少し離れたところにある県立高校の教員をしていました。だから高校生の相手には慣れているつもりなんだけど、如何せん不器用だから…」
まさかこんな風に生徒に助けてもらっちゃうなんてね、と諸磯はうなだれてしまう。どう声をかけたものかと迅が考えあぐねていると、
「礼には及びません。全く新しい環境でのお仕事、慣れるには苦労が絶えないことでしょう。心中お察し申し上げます」
と、諸磯と同じく今年から琉晴にやってきたエミリーが、肩に手をそっと添えて励ましたのだった。
―――あのエミリーが、他者を励ましている?
直後に、何か彼女が他者を励ましてはいけない決まりでもあるのかと、迅は咄嗟に手に持っていた資料を顔の前に運んで自分の表情を覆い隠してしまった。ぼうっとしている訳にもいかないので資料に記された文章に目を通してみると、『ストレスに注意!:春季は新しい環境や出会いに心がわくわくする一方で、その環境に対する不安や緊張からストレスを感じやすい季節です』などと書いてある。明らかに生徒向けの資料に思われたが、まだ配布されていないということは明日以降お目にかかるのだろうか……
「そっか、貴女がD組の留学生の子だね。そう言ってもらえるととっても心強いよ。ありがとう」
資料の隙間から覗くと、諸磯が困ったような笑顔で感謝を述べていた。相対するエミリーの姿は、ちょうど自分が資料で隠していて見ることができない。
「ええと…そしたら顧問、是非とも引き受けさせてください。力になってあげたくって…大丈夫かな?」
そこで諸磯が顧問となることを名乗り出た。はっと資料から顔を上げると、翔太がぱっと笑顔になったところだった。
「わあ〜っ、ありがとうございます、先生!」
「どうか宜しくお願い致します」
エミリーも翔太に続いて静かに一礼している。
「っ、よろしくお願いします、助かります!」
遅れをとってはなるまいと、迅はほとんど直角に頭を下げて―――古典的な運動部式の挨拶だ―――礼を述べた。
斯くして、あっけなく部員どころか仮の顧問までもが決定した。
――
「いやぁ〜、すんなり決まっちゃって良かったねぇ」
翔太は廊下のタイルの上を軽いスキップでもって移動している。道行く掃除中の生徒からは怪訝な顔で見られているが、当人は全く気付いていないようだ。まごうことなきお花畑ボーイだなと、迅はひとり肩をすくめた。
「良かったですね、赤坂君。今後の活動が楽しみです」
エミリーが応えたが、実際の彼女はというと、本当に楽しみなのかと言わんばかりの無表情で歩いているだけだった。
「へへへ、順調に行きすぎてむしろ今後が怖いくらいだよ〜」
翔太はそれはもう周囲に音符や花がご機嫌なリズムに合わせて揺れていそうなほどに喜んでいた。他者が自分の願いを叶えて喜んでいる姿を見るのは、自分も嬉しい。迅は、ふ、と一人でに笑みがこぼれるのが分かった。
「もしかすると神様がお前に味方してるのかも知れないな。このままお前のやりたいことをやれ、星を釣り続けなさいってさ」
半ば冗談めかしてそう言ったのだが、その瞬間、翔太はふとスキップを止めて迅の方を振り返った。
「…神様?」
日頃から脳天気でご機嫌な翔太は、しん、と静まってしまうと、神妙な面持ちで迅の言葉を繰り返した。下手をすれば無表情のままのエミリーよりも強い威圧感を放つ様子の彼に気圧され、お、おう、と曖昧に返事を寄越す。
「……だとしたら…それは神様じゃなくて…」
すっ、と窓の外―――教室の側とは反対に設けられた廊下の窓は、中庭を隔てた向こう側の北校舎にほとんど視界を遮られていて、見える空の面積が狭い―――を指差し、遠くを見るようなぼうっとした顔で、
「…ポラリスの仕業だよ」
静かに零すに至った。
それは、迅にとって聞き覚えのない単語だった。ポラ…なんだって?と問うたが、彼は進行方向に向き直ると、再び何事もなかったかのようにご機嫌な足取りで歩き始めてしまった。
「―――Polaris…日本語では北極星。こぐま座のα星のことを言います。黒羽君、日本には北極星を神様だとか、幸運の女神として崇める習慣があるのですか?」
エミリーが首を傾げているが、迅には何のことやらさっぱり分からず、スキップしている翔太の赤い背中を見つめるばかりだった。