1-01 グレースケールの流星
―――…
丘より臨みし 荒灘の
白波の如く 胸弾ませ
努めよ 励めよ
ああ琉晴 我らが 琉晴
黒羽迅は、足元の木目に向かって小さな声で琉晴学園の校歌を歌った。決して嫌いな詞ではない。むしろ雄大な海を題材にしているのを気に入っていて、一年生の頃はなるべく大きな声で歌っていたと思う。しかし今の声量ときたら、足元に引かれたバスケットボールのフリースローラインに届くかも怪しいほどの小ささだった。成績を確定させる音楽の試験でこんな歌い方を披露しようものなら、お前はやる気があるのかと教師に怒られてもおかしくない。それでも今は、声を張り上げて歌う気分ではなかった。
あー、りゅーせー、我らがりゅーせー!と母校を揶揄するかのように大声で歌っている学生の悪ふざけを横目に、悪ふざけをする気力など欠片もないなと、迅は淡々と歌詞をなぞるだけだった。
やがて吹奏楽部による校歌の演奏が終わると、壇上に立った司会が着席を促した。従った生徒たちの頭は順々に沈んでゆき、それと同期するように、室内履きが床と摩擦するきゅっという音が所々で鳴る。
「それでは、校長先生より、新学期の挨拶を頂きます」
もとより校長の長い講話など聞くつもりのなかった迅は、壇上になど目もくれない。何を見て時間を潰そうかと視線を動かすと、ふと二階の窓の外から床に向かって差し込む光の筋が目に入った。温かな光だ。そのひとすじの光の中に、体育館に舞う細かな埃の粒子がちらちらと瞬いていた。もし自分がどこかの神の信者ならば、あの真っ直ぐな光明のふもとに立ち、手を組み、祈りを捧げるのだろうか。
―――どうか、愚かな我を救いたまえ、と。
「ああ神様、今学期こそはどうか、いたいけで、チャーミングで、スレンダーで、超良い匂いのする女の子をお恵みください!」
桜並木が続く琉晴学園のメインストリートで、中学時代からの友人である降矢侑斗が、どこかの宗派の都合の良い神に祈った。形式もへったくれもない、しかも煩悩まみれの粗雑な祈りだった。阿呆ぬかせと言わんばかりに、どこかの陽だまりからカラスがしゃがれ声で返事を寄越した。
校長が講話の冒頭で告げたように、今日はまさに桜の花が咲く春麗らかな善き日だ。春の長期休みに日本全土を翻弄した三寒四温の猛攻など嘘のように温暖で、学園の構内には生徒たちの久しぶりの登校を歓迎するかのように桜の花が綻び始めていた。校門をくぐると初めに目に映るのがこの桜並木であり、入学したての一年生であれば、これから始まる新しい生活に期待と不安を入り混ぜながらも眼前に美しく煌めく刹那的な春の一コマを胸に留めるだろうが、二年次ともなれば最早単なる通過点でしかない。ああ今年も桜が咲きましたね、綺麗ですね、ところで今年の新入部員の勧誘ビラの件ですけれども、といった具合に、すぐに目先の問題へと話題が流れてしまう。迅もその一人で、体育館を出れば否が応でも目に入る桜並木の塊を侑斗と見上げたが、随分張り切ってんな、とまるで慣れ親しんだクラスメイトに声をかけるがごとく、侑斗が零しただけだった。つまりはそのくらい、当たり前の風景になってしまっていた。
「ふふ、今年こそ必ず来るぜ、超絶美人なクラスメイトと結ばれる奇跡の展開が!」
その桜の下で、何やら確信めいた様子で侑斗は拳に力を込めた。
「中学のときからずっと同じようなこと言ってんな…」
「声に出せばシャキッとすんだよ。何かを実現したいときは、まず声に出したり、文字に書き起こさないと駄目なんだって」
「…で、それ、実現できた?」
「まだ!」
迅の覚えている限りでは、侑斗は性懲りも無く、何度玉砕したとしても中学時代から同じ祈りを捧げ続けている。見上げた根性と言うべきか、愚直と称するべきか、とにかく彼はひたすらに可愛い女の子と出会うことを願い続けている。このまま放っておいたらいずれはとんでもなく恋愛観を拗らせた人間が出来上がってしまうのではないかと、迅は肝を冷やしている。
「迅は何か、絶対に実現したいこととかある?この際だし、空に宣言してみれば」
侑斗に促され、えーと、と声を詰まらせてしまった。
「実現したいことねえ…」
春の柔らかな風の中で腕を組み、首を傾げ、熟考してみる。―――いや、熟考する素振りで、迅は時間を稼いだ。しばらくして、頃合いだろうと顔を上げ、
「無いな」
と、答えた。
「無いかあ」
潔い解答に、侑斗も苦笑いだ。無理もない。
「じゃあさ、願い事とかないの。月並みだって良いよ、彼女が欲しいとかさ」
ああ、それならある。すぐに思い当たった。迅はぽん、と手を打って、頭上の空に向かって告げた。
「新しいクラスの担任は、杉本先生以外でお願いします!」
――
「最悪だ……」
「ハハハ、迅、ここぞという時の運が本当にないな!」
黒板に掲示されたクラス替えの結果を見るなり、迅は膝を撃たれたかのように崩れ落ちてしまった。なんと、二年次の新しいクラス担任の欄には、杉本裕行と書いてあったのだ。杉本以外ならば琉晴のどんな先生だって構わない、と自分なりに謙虚な姿勢で願ったにも関わらず、呆気なく神に見放されたようだった。何がいけなかったのだろう、絶対にそれを叶えてみせるという信念が足りなかったのか。もっと大声で宣言すれば良かったのだろうか。あれこれ在ったかもしれない未来に思いを馳せてはみるが、既に決定してしまったことは逆立ちしても変えられない。迅は諦めたように大きな溜め息をついた。
「迅はなんで杉本さんが嫌いなんだっけ」
「決まってんだろ!あの人おかしいからだよ」
「えー、優しいから良いじゃん」
「その優しさが俺にはしんどい!」
おかしい、と一言で表すのはいささか横暴かもしれないが、嘘ではない。まさしく杉本裕行という人間はおかしいのだ。
自由奔放で多様性に寛容な琉晴学園にも、曲がりなりにも校則は存在する。めちゃくちゃな格好で登校するな、とか、改造した制服を着るな、とか。破る側からすればそんな縛りなどあってないようなものだと誰しもが心の底で思っていたが、それを杉本は陽の元に曝け出した。『見てくれが全てではない、しっかりと勉学に励み結果を出しさえすれば、文句を言われる筋合いなどない。よって、すぐに校則を変更することは無理だとしても、まずはモデルとして自分のクラスだけでも校則と無縁の場所にしてはくれまいか』と。当然戸惑いが続出し、却下せよと捲し立てる者も居たが、結果を見ずに決めるなと杉本は食い下がった。幸いにも寛容な―――いや、単に押しに弱いだけかも知れないが―――校長が首を縦に振ったおかげで、『琉晴で杉本のクラスだけは校則を破っても差し支えない』という奇妙な構図が出来上がってしまった。そんなイレギュラーを認められるほどに、杉本は破天荒だが優秀な教師だった。
「ちゃんと課題を提出したら校則を破らせてあげるだなんて、勉強がからっきしな俺には何のメリットもないよ。校則を破りに来たわけでもないし、何をしろっていうんだ。それに…あちこち嗅ぎ回られるのが嫌だ」
「確かに。ゴシップが嫌いな迅とは相性最悪だな」
課題提出に注力してさえいれば良いなら、迅もそれほど杉本に苦手意識を抱かずに済んだだろう。だが彼は、生徒の情報を隅々まで記録しまくる『データ魔』の一面をも持ち合わせている。学校に提出する書類から得られるレベルの情報など入学した時点でつぶさに記録されてしまい、そこからは恋人に振られただの、友達と痴話喧嘩しただの、一体いつどこでこれを見聞きしたのかと言わんばかりの情報の果てまで収集するというのだから末恐ろしい。彼の異常なデータ収集癖の前では、どんな陰謀も策略も脆く崩れ去る砂上の楼閣だ。杉本の毒牙にかかったら最後、彼の収集欲が満たされるまで―――彼のデータベース・ノートに全ての情報が記されるまで―――プライベートの果てまで追われる羽目になる。あまつさえ彼が担任とくれば、ほとんど毎日データ収集ストレスに曝されることになるのだ。
「住めば都って言うしさ。きっと一年もすれば、居心地良くなるって」
「だと良いけどな」
「なんせD組だから!デカけりゃデカいほど良い派の俺でさえ、EよりはD派なんだよ。だから、きっといつかDで良かったって思う日が来るさ」
「…何の話をしてるんだ…」
階上の新しい教室へと向かうべく、階段に足をかける。一年間で半分履き潰されたような形にくたびれた上履きがタイルと摩擦し、きゅう、と解放を求めて悲鳴を上げた。
「でも、冗談はさておいて、迅と一緒のクラスで良かったよ。一年の時は違うクラスだったもん、寂しかったなあ」
「寂しくなるほど離れてないだろ。よく言うよ、いつも昼休みに遊びに来てたくせに」
「ええ、そうだっけ?」
ははは、という侑斗の笑い声をバックに、辿り着いた新しい教室:2年D組のドアを開ける。期始めの大掃除によって昨年度の学級の名残りが綺麗さっぱり取り払われ、まだ時間の傷跡がひとつも刻まれていない、殺風景な部屋だった。開け放たれた窓の側で、クリーム色のカーテンがばたばたと船の帆のように膨らんであおられている。迅はその光景に何一つ新鮮味を感じなかったが、当然である。一年次の教室と全く同じ構造の部屋だからだ。学園はダンジョンではあるまいし、図書室の本棚に隠し扉もなければ、廊下にワープ床もない。ましてや各階の部屋の構造など、同じに決まっているのだ。違いがあるとするならば、地上階だった一年次と比較して窓からの眺めがいくらか良くなったくらいだろうか。
「気分爽快!高いところ、大好き!」
やっほう、と嬉しそうに歓声を上げながら窓枠へと駆けてゆく侑斗の背中を見遣りながら、迅は思った。去年の春はどういう気持ちで教室に入ったろう。細い釣り糸を手繰るように思い出を辿る。―――あの部屋は日当たりが良くて、ツツジか何かの良い香りがして、もっと空気も透き通っていたような。それに、まるで花風を受けて塵も埃も取り払われたかのように爽やかな心持ちだった。今はどうだろう。胸がつかえたような心地で、灰色のコンクリートの床ばかりが目に入る。担任が苦手な杉本というだけで、こうも心持ちが鈍重になるものだろうか。…いや、そんなはずはない。分かりきったことじゃないかと、グレースケールの景色を遮断するように迅は目を閉じた。
―――自分が、愚かだからだ。
「こんちわーっす」
まるで生徒のものかと紛うような軽い挨拶でもって、銀色の腕時計が煌めく右手を掲げながら―――彼は左利きだ―――杉本は教室に現れた。
「こんちゃー!」
「こんにちはぁー!」
各所から発せられるはつらつとした返事を聞く限りでは、迅と異なり、ほとんどの生徒が杉本を歓迎しているようだった。人の気も知らないで、と迅はげんなりしたが、むろん、その感情を周囲と共有したことなどないので、彼らは知る由もないだろう。
「どうも、2年D組の担任になりました、杉本裕行です。俺のことは生徒指導で見たことがあるかな。今年も楽しくやりたいと思ってますので、皆さんも一緒に儚く尊い青い春を乗りこなしていきましょう。どうぞよろしく」
自己紹介の最後に杉本がウインクをかますと、女子生徒の一部からきゃあっと黄色い歓声が上がった。男である迅からすれば気色悪さに失笑ものだ。これが女子受けを狙ってやっているならまだしも、別段狙っていないのだから寒気がする。しかし残念なことに、女子生徒からすれば幸運なことに杉本の顔は整っており、歯の浮くような挙動に見合った顔面偏差値をマークしている。加えて頭の回転が速く、先のように明朗でありながら、何処となくミステリアスで度し難い男性だ。聞いたことがある、温和であることに越したことはないが、静かで少し近寄り難い、攻略要素が残っているくらいの方が女性にとってはたまらないものだと。果たしてそうだろうか、と迅は壇上に立つ苦手な教員をぼんやり眺めながら首を傾げる。
「それじゃあ次はいよいよ、お前らが自己紹介する番……と、言いたいところなんだけど」
その杉本が、不自然なタイミングで言葉を切った。きゃあきゃあと騒いでいた女子生徒も、これからどうやって校則を破ろうかと企てていた男子生徒も、多分に漏れず迅も、突如として訪れた沈黙に何事かと口をつぐみ顔を上げるが、そこには静まり返った教室を見渡し、微笑んでいる杉本が映るだけだった。その満ち足りた笑みといったら、狙っていた演出が上手くいったときの映画監督のようだった。そうして、2年D組の教室に完全なる静寂が訪れた瞬間、杉本監督は静かに口を開いた。
「実はお知らせしたいことがあってな。今日から、イギリスの留学生をこのクラスに迎えることになったんだ」
まるで出番が来るその日まで悟られぬようひた隠しにしてきたサプライズプレゼントをそっと懐から差し出すように、落ち着いた口調で知らせが告げられた。当然サプライズなど予想だにしていなかった自分たちは、しばらく言葉の意味が飲み込めなかった。飲み込めない情報を幾度も反芻しているうちに、ようやく事態の理解が追い付いてきた―――
―――きょ、今日!?留学生が来るのか!?
何かが爆発した、と迅は錯覚した。脳が情報を受け入れ、言葉の意味を理解した瞬間、宛ら宇宙創生:ビッグバンのような光が脳に直撃したからだ。この動揺は反杉本派である自分だけのものなのだろうかと周囲を見渡すが、流石の杉本派も面食らったようで、唐突に教室に生まれた原始宇宙を目の当たりにし、呆然としていた。
「ははは。急だよなあ、俺もそう思うよ。だが、革命的な環境の変動に立ち会う時、人間は否が応でも進化を求められる。そうしてまた一つ、階段を登るんだ。その進化が、良い方に転ぶことを祈るよ。では、今から連れてくるので」
創世神こと杉本は何やら大仰なことを口走ると、では、と手を振りながら教室から立ち去った。
杉本が去ってからしばらくの間、教室は静寂に支配されていた。しかし誰かがふと、どういうことだと溢すと、全員が突如として我に返ったように息をつき、驚きを周囲とシェアし始めた。ようやく気味の悪い静寂から解放され、迅は安堵の溜め息を吐いた。そうだった、と迅はひとり頷いた。人の精神を揺さぶって無理矢理可能性を引き出すような真似をするからこそ、杉本という教師が苦手なのだ。
「イギリス美女きたーーー!」
侑斗の声が背後から聞こえてきたと思った次の瞬間には、肩を掴まれ、前後に激しく揺さぶられ、視界が前後左右に引っ掻き回された。急に揺するんじゃない、とたしなめる。というか、
「び、美女?女の子なの?」
「知らん!けど俺には分かる、俺の願いが成就したんだ。絶対に可愛い子だよ」
「ああ、そういうこと…」
侑斗は留学生が女子であると決め付けて大はしゃぎだ。ぬか喜びにならなければ良いが、と迅は苦笑いで応じた。
やりとりのさなか、侑斗と同様に留学生の話題で沸いている教室の喧騒の中では、複数人の学生のグループが学校指定のネクタイを緩めているさまが映った。留学生の是非など興味が無さそうな彼らは、携帯端末のインカメラで自分自身の姿を確認し、ああでもない、こうでもない、と首を傾げている。杉本のクラスで得られる唯一の利益を享受しているのだ。
「迅は真面目すぎるんだよ」
同じものを見ているのか、侑斗が溜め息まじりに零した。
「少しくらい型から外れても良いじゃんか。ずっとが無理でも、今年くらいはさ」
失礼な話だが、侑斗にしては随分と大真面目な話題だったので咄嗟に振り返ると、
「いや〜っ、俺ほどのモテ男だと、これ以上型から外れる方が無理って話だよなぁ!杉本先生、万歳!」
何処から取り出してきたのか、ヘアワックスやスプレーなどの整髪料の類を店の陳列棚に見立てて机に置き、左から順に髪に塗ったくり、手鏡と睨めっこを始めているところだった。このおちゃらけた男に何を期待していたのやら。がくり、とまるで重しでも乗せられたかのように両肩を落としてしまった。
「上着、重いな」
そういえばと、迅は上着を脱ぎながら思い出した。寒がりでない迅にとって制服の上着は着る機会もほとんどなく、鈍重で煩わしいものだった。私立高校というだけあって無駄に制服の作りがよく、良質な生地を使っているのだろうか、手に持つとずっしりと重みがのしかかるのだ。こんなに使い勝手の悪い服のくせに、砂埃で汚すと手入れするのは誰だと思ってる、と母親に怒られるのだ―――
「それだ!制服なんか脱ぎ捨てちゃえよ」
「ええ、だって…」
ふと、手鏡の中の自分を見つめていた侑斗が、迅の肩をばしんと叩いた。何をそんなにはしゃいでいるのだろう。衣替えの時期が訪れるまで、この石のように重い制服を羽織ることは校則で義務付けられているというのに。ましてやそれを破ることなど―――
「……校則違反じゃ、ないのか」
「そういうこと!俺たち、杉本さんの生徒なんだよ。それに、何もネクタイ緩めたり制服を改造したり髪を弄ることだけが型から外れる方法じゃないんだぜ」
そうだ、今の自分は決まりごとの縛りから無縁な存在なのだ。脳裏に、君は自由な高校生なんだから何でも好きなようにやりなさい、と仏のような顔で微笑みながら説いてくる杉本が現れた。その笑みを詐欺師の浮かべる胡散臭いものとしかとれない反杉本派の迅は、やかましい、あっちへ行けと彼の幻影を追い払いながらも、浮き足立った心地で考えた。重苦しい制服を脱ぎ捨てたとして、来たる肌寒い日には何を羽織ろう。初めて型から外れる自分の背中を、控えめながらもそっと押し出してくれるような上着とは、何なのだろう。
「……あ、」
くたびれたエナメルバッグの隙から顔を覗かせている学校指定の体育着が目に入った。袖口を引っ張ると、中で窮屈そうに折りたたまれていたであろう上着が、伸びやかに広がってその姿を現した。僅かに洗剤の香料が香る、澄んだ空のように青い色をした上着だった。
「これにしよう」
「え、学校のジャージ?」
「おう」
いや、そこはブランドもののパーカーとか、男が上がるアイテムをさ、とぶちぶち零している侑斗を横目に、青いジャージを纏った。制服のジャケットが右往左往する忙しない教室でたった一人、学校生活ですっかり見慣れてしまったジャージを羽織る。にも関わらず、迅と同じ装いの人間は一人も見当たらない。型から外れ、周りより高く跳ぶことだけを目指してイメージチェンジを図る生徒には思い立ちもしないことだった。
「軽くて良いんだよ、このくらいの方が」
迅はジャージのポケットに手を突っ込んで答えた。
「よっ、早速のイメージチェンジ・アンド・スピーキング、ご苦労」
時を同じくして、軽い挨拶と共に、開け放たれた引き戸の向こうから杉本が姿を現した。新担任の登場に、喧騒でごった返していた教室はさっと静まり、立ち上がっていた生徒は着席し、乱れた椅子は元の位置に戻された。
「議論をしてもらうのは大いに結構だが、ご本人様はこのドアの向こうに居るぞ」
おおっ、と生徒たちから歓声が上がる。
「しゃーっ、イギリス美女、こい…!」
まるで競馬場の最後の直線で目当ての馬に声をかけるように、侑斗が両の拳をぎゅっと握り締めながら、押し潰したような声で戸に向かって唸っていた。その拳に握られているのは万馬券か、ただの紙切れか。彼の必死の形相に顔を引きつらせながらも、迅もまた、閉じられた戸の向こう側にまだ見ぬ留学生の立ち姿を思い描いていた。どんな人間であれ、次にこの戸が開けられたとき、此方に吹き込むのは異国の、欧州の風だ。
「お前たち、ちゃんと留学生を受け入れられるな?」
杉本の問いに対し、大丈夫でーす、と快活な声で答える生徒。良い雰囲気じゃないか、と杉本が笑っている。
受け入れる。その言葉を聞き入れた迅は、未知のものを脳に迎え入れる準備をするべく、改めて固く閉ざされた引き戸を見つめた。
この部屋に欧州の風が入るそのとき、網膜で異邦人を捉えたその刹那、何を思うだろう。そして、何が変わるだろう。臆病に成り下がった愚かな自分の、石のように押し黙った心臓が、無邪気に跳ねて騒ぐだろうか。この凹凸のない、なめらかな灰色の景色に色がついて見えるだろうか。もう一度あの、青い光に満ちた日々が帰ってくるだろうか。
―――自分の足は、もう一度あの砂を踏めるだろうか。
「よし…じゃあ早速、留学生を紹介するか」
入ってくれ、と促す杉本。応えるように、引き戸が控えめに開かれる。そうして、きゅっきゅっと鳴る新品の上履きの音と共に、留学生その人は姿を現した。
青い風だ。さらり、と突如、何処からともなく吹いた柔らかな青い風が、迅の頬を撫でた。綻んだツツジと、仄かに海の香りを携えて。それから程なくして、水を遣り忘れて枯れた花壇におもむろに柄杓の水を撒いたときのように、もしくは川の流れの中に素足を浸したときのように、指先に、額に、瞳に、深い青が、抵抗する間もなくさらさらと染み渡ってゆき、迅の意識は、ここは海中かと見紛うほどの青に支配された。
四方を青に囲まれて狼狽える迅が瞬きの末に瞳に映したのは、眼前に立つ女子生徒の姿だった。
背中までまっすぐに梳かされた、ストレートのブロンドの髪。丸い縁の赤い眼鏡。少し頼りなさそうな小さい肩、細くて真っ白な足、そしてこちらに向き直ったときに覗いた、人形のように大きく真っ青な瞳。留学生の正体は、とても可愛らしい女の子だった。
―――うわ、あ、
迅は驚きのあまり開いた口を塞げずにいた。何故なら今し方、彼の網膜にこびり付いていたグレースケールの世界が、女子生徒を捉えた途端に突如として彩度を伴うようになったからだ。青い光が降る海中で、彼女の髪のブロンドが、眼鏡の赤が、そして瞳の青が、明滅するかの如く迅の脳に雪崩れ込む―――
「こちらが、俺達2年D組の一員として転入することになった青葛だ」
杉本が留学生の名を告げたところで、迅は我に返った。首をゆるゆると振ってみれば、眩しいほどの色彩や海の静けさは何処へやら、此処はただの教室ではないか。しかし迅の指には、まるで水に浸したかのような清涼感の気配が確かに残っていた。みんな拍手、と杉本が促したので、弾かれたように壇上に向き直り、手のひらを合わせる。そこからはぱち、ぱち、と見計らうかのような音が各地から響いて、不自然なまでのタイムラグを経たのち、ようやくまとまった拍手が起こった。
「あれ、青葛が来る前はあんなに喋ってたのにな。すっかり静かになっちゃって」
押し黙っていたのは迅だけではなかったようで、クラス中が静寂に包まれていた。唯一、杉本だけがはっはっはと笑っている。
「それじゃ青葛、お前から自己紹介してくれ」
杉本の呼びかけに対して留学生―――アオカチ、という名字らしい―――はこくりと頷いて、一歩、二歩と確かめるように教壇を登り、小さな手でチョークを取ると、美しい筆記体で黒板にさらさらと文字を描いていった。カン、という、名前の最後の文字を綴った後にチョークを控えめに打ち付けた音が、静かな教室に響き渡る。彼女は続けてその筆記体の下に綺麗なカタカナで読み方を記し始めた。
『エミリー・アオカチ・クロウフット』
カタン。チョークを置く音が再び教室内に響く。そして、向き直る。
「この度、琉晴学園第二学年Dクラスへ編入させて頂く事になりました、エミリー・青葛・クロウフットという者です。ヨーロッパの西に位置する、イギリス…グレートブリテン及び北アイルランド連合王国より参りました。名前を見ても察しがつくかとは思われますが、私は日系イギリス人です。親族の話を聞き、興味を抱いていたこの日本という素晴らしい土地に留学できます事を、かねてより夢に見ておりました。皆様と共に今日という日を迎えられましたことを、心より嬉しく思います。どうぞ、宜しくお願い致します」
留学生は鈴が鳴るような―――と表現するに値する―――透き通った声で、長い文章を何も見ずに、一度も噛まずに、更には流暢な日本語で述べ、ぺこり、と一礼した。
―――綺麗だ。
思わずため息が零れた。所作にほんの少しの乱れもない。
再び、先のような躊躇いがちな拍手が繰り返される。
「どうだ、お前たち。あまりに日本語ペラペラでビビったか」
相変わらず口を閉じたままの生徒に軽い口調で話題を振る杉本。違う、と迅は息を飲んだ。確かにこの生徒は人間だ。だが、人間にしてはその美しさが浮世離れしすぎている。そう、まるで設計図通りに寸分狂いなくオーダーメイドでもって作られた、人工物か何かのように―――
「さーて、何処に座って貰おうかなーっと」
杉本が教室を見渡し始める。そこでふと迅が横を見やると、おかしなことに、侑斗が先ほどまで座っていた自分の隣の机は空席だった。何処へ行ったのだろう、と探せば、彼は自分の前の席に腰掛けていた。担任が杉本だと判明したショックのあまり座席表をよく見ていなかったのだろう、本来自分の隣には誰も座っていなかったのだ。まさか、と迅は顔面蒼白になり、再び教卓の方を見やると、杉本と目が合う。
「黒羽の隣が空いてるな。青葛、そこに座ってもらって」
「はい」
はいじゃないよ!と、喉まで出かかった悲鳴を必死に押し留めて、
「あ、あ〜、こっちでぇ〜っす。どぉぞ〜」
と、阿呆な声を出して手を振る。
留学生―――エミリー―――は此方を見やると、ちょこちょこと並べられた机の列の間を移動してきて、手に持っていた新品の匂いが漂う学生鞄を机に置き、
「よろしくお願いします」
と言いながら深々と頭を下げると、迅の隣に座った。こちらこそ、と、若干どもりながら迅も応じる。
「よし!青葛の挨拶も終わったことだし、今からかなり重要な書類を配るから、お前ら余計なこと喋らないでちゃんと読むんだぞー」
杉本のその声で、この留学生の受け入れは終わった様だった。その瞬間、何かの呪縛から解放されたかのように、クラスメイトが一斉にはぁ、とため息をついた。
夕方のホームルームが終わってしまえば、生徒たちも自由の身だ。部活動に勤しむもよし、さっさと帰って疲れを癒すもよし、趣味に興じるもよしだ。迅はといえば、放課になった教室で、プリントの類をファイルにまとめて突っ込んでいるところだった。
「可愛いけどねー」
「不思議ちゃんってやつ?」
何やら囁くようにくすくすと笑いながら、自分の横を二人の女子生徒が通り過ぎてゆく。自分のことを鈍感な人間だと自覚している迅でさえ、彼女たちが何の話をしているかなど想像に難くなかった。間違いなくエミリーのことだ。
あれから、幾人もの生徒がエミリーの元を訪れ、嵐のように質問攻めにしていった。趣味は何、好きな音楽は、日本語はどこで習ったの、可愛いね、等々。隣に座っている迅の存在など構わず、だ。異質な存在というのは、大方そういう目に遭いがちだ。自分まで人だかりに囲まれてしまうと困るので早々に退散してやろうかと目論んでいたが、すぐにその必要は無くなった。
「趣味は読書です」
「Classicを好んで聴きます」
「日本人である父から、幼い頃から習ってきました」
「可愛いという褒め言葉は極めて恣意的ではありますが、言われれば嬉しいものです。Thank you so much」
エミリーはくそ真面目に、または機械的に全ての問いを捌いていった。だが、その応答が機械的すぎたのだ。
例えば、
「読書かぁ!1週間に何冊くらい読むの?」
と女子生徒に問われれば、
「ものによりますが、2、3冊程度でしょうか」
と、愛想笑いも浮かべずに返答する。
「すごいはやーい!頭良いんだね〜っ」
対して満面の笑み―――女子特有の、本当にそう思っているかも怪しいほどの大袈裟な挙動も添えられている―――で生徒は囃し立てるのだが、
「いえ。それほどでも」
石のように固まった表情で謙遜するだけなのだ。
その度にいやだな、緊張しないでよと茶化すのだが、緊張などしていませんとしか返答が返ってこないので、何やらこの女の様子はおかしいぞと懸念を抱き始めた生徒は早々に会話を切り上げ、次第に方々へ散っていった。そうして、最早人混みなど見る影もないほどの静けさに包まれた現在に至る。
そんな異質なやりとりを見てしまったので何を話しかければ良いものか分かるはずもなく、結局、最初の挨拶を交わしたきり一言も口を聞いていない。決して新しい仲間のことを邪険にしたいわけではないが、仮に他者との馴れ合いなど御免被る、というような孤高の狼のような人間だったら自分もあちらも困るだろう、と。
「エミリーちゃん!ご機嫌麗しゅう?シルブプレ?」
そこへ、侑斗が軽やかなステップでもって飛び込んできた。日中のエミリーの応対を見ていないのだろうか。どちらにせよ、この男の恐れ知らずなマインドは称賛に値する。
「其れはフランスの言葉です。初めまして、貴方のお名前は」
「いや~的確なツッコミだ!参った参った!俺は降矢侑斗。よろしくねっ」
「ええ。こちらこそ」
やはり、先のように冷淡で抑揚のない声色でもってエミリーは応対している。普通の学生ならまだしも、相手が侑斗ならば無理はないのかも、などと失礼なことを考えてみる―――
「こっちは迅だよ。中学からの付き合いで、足がすっげー速いんだ」
と、自分の意志に反して、侑斗が勝手に自分のことを紹介してしまった。おい、と目で訴えかけるが、侑斗は全く気付いていない様子で満面の笑みだ。
「成る程。お二人は長いお付き合いなのですね。ジン…というのは、ファミリーネームでしょうか?」
幸か不幸か、侑斗の計らいによって強制的に会話が始まってしまった。本当にお前は余計なことをする天才だなと心の中でなじりながら、顔を上げる。
「ああ、ううん。俺の名前は…」
見遣れば、灰色の体育館で自分が祈るべきかと見上げた光明のふもとに、その小柄な少女は居た。夕陽の柔らかな光の中に立ち、自分をじっと見つめている。遠巻きに見た時は蒼く透き通っていて美しいと思った彼女の瞳は、こうして間近で見つめると時が止まってしまったかのように煌めきを封じ込めており、まるで生気を宿さないガラス玉のように無機質だった。それに加えて機械的で抑揚のない所作や応対も相まって、彼女は何というか、オートマタのように非人間じみている。
―――そう、言うなれば、無機物な少女だ。
「…俺は、黒羽迅。これからよろしく」
「成る程。クロツバ君。こちらこそ、何卒よろしくお願いします」
エミリーが淡々と迅の名字をなぞりながら、頭を垂れた。あまり名字で呼ばれることはないので、むず痒い心地がする。おう、と応じながら、力ない笑みが漏れるのが分かった。表情筋が上手く動かせない。祖国を遠く離れて心細いであろう少女に愛想笑いの一つも作れないのかと、自身に対する嫌悪感が腹の底からせり上がってくる。エミリーは小首を傾げた。無理もない、出会ったばかりでお互いの事情などほとんど知らない今、眉間に皺を寄せながら眼下の教室のタイルに目をくれる男を訝しむのも当然だ。
「ああ、エミリーちゃん。実は迅、本調子じゃないんだよ」
居た堪れなくなったのか、侑斗が口を挟んだ。エミリーは再び、ホンジョウシ?と零しながら小首を傾げる。
刹那、晴れとも曇りとも取れぬ曖昧でどんよりとした迅の心に、天を裂く雷鳴が響き渡る。それを皮切りに、どす黒い雨雲が精神の天井を埋め尽くさんと言わんばかりに湧き上がった。やめろ、それ以上何も言うな。
「どこか具合が悪いのですか?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ。本当はもっとハキハキしてて、元気なんだよ。それに、こいつに短距離走らせたら勝てるやつなんて居な―――」
「……今日は帰るわ」
侑斗がふと肩に触れようとするが、迅はその手を体を捻って避け、エナメルバッグを肩にかけた。
「えっ、ウソ、じゃあやっぱり部活には出ないの」
侑斗が狼狽える声が背後から追いかけてくるが、構わず大股に教室の扉へと向かう。
「……そうなるな。じゃあ」
ひらりと背中越しに手を振って、迅は教室を後にした。
―――どこか具合が悪いのですか?
具合など悪いものか、と俯いたまま、恨めしいほどに健康体な迅は歯軋りした。両の足を動かせど、全く罪のない留学生の怪訝な無表情が脳の端から迅を追い回す。
彼女は何も知らないのだ。そして、迅もまた、彼女のことを知らない。
いつしか下駄箱の前まで到達してしまった迅は、自分の下駄箱の扉を手の甲で静かに叩いた。薄汚れたスチール製のそれは、トン、と鈍い音を返すだけだった。
ふと、頭上を仰ぎ見る―――やはり其処には、灰色に塗装された天井が自身を押し潰さんと言わんばかりに待ち受けているだけだった。
ああ、己の愚かしさに、ため息も出ない。