1-02 赤色巨星
「はぁ……」
時刻は早朝、午前6時。
盛大なため息を添えながら、迅は寝間着姿で自室を後にした。季節柄まだ日が短いせいか、窓の外は太陽さんさんというわけでもなく、頼りない薄暗さだ。庭に植わった木の枝に留まっているのだろうか、小鳥達がやがて訪れる燃えるような朱を待ちわびているかのように小粋に目覚めのさえずりを響かせている。
―――部活に行ってた時の名残だな。別に朝練に出るわけじゃないのに毎朝のように早起きなんかして…アホか…
「はよっす…」
気怠い声でそう挨拶しながら居間へと入っていくと、キッチンに立って彼の弁当を作っている母―――仁美―――の姿があった。
「おはよう、迅」
豚肉の生姜焼きを作っているであろうじゅうじゅうという音が迅の聴覚を刺激し、空腹感が意識の表面へと引き出される。
「どうしたの、今日は随分元気ないね」
「んん〜」
ダイニングテーブルに突っ伏す迅。こら、突っ伏すんじゃないの、と仁美が迅を叱りながら皿を置いた。
仁美がリモコンでテレビの電源を点ける。日々の出来事を他人事のように伝えていくニュースキャスターの声が、まるで靄がかかった雑音のように流れ出した。こりゃつまんないね、と仁美が別のチャンネルに切り替えてしまうと、地球が織りなす雄大な自然の美しい一コマを切り取った映像番組に辿り着いた。岩肌によじ登って白い息を吐きながら、左上に表示された白抜きのデジタル時計に向かって力強く吠える大きなヒグマを見、そんなに朝が嫌かい、と零した。
「母さん」
伏したままで母を呼ぶと、どしたの、と返事が返ってきた。
「俺が陸上部行かないことにした、って言ったとき、どう思った」
「これまたどうして」
「…気になっただけ」
「うーん」
机に額を押し付けたままの迅を横目に思案顔になる仁美だったが、彼女はふっと笑顔を浮かべた後、
「おらっ!」
と威勢のよい声を上げて思い切り迅の背中を叩いた。
「な、何だよ!」
痛えなと悲鳴を上げながら仁美の方を振り返る。
「アンタみたいな単純運動バカにも、ちっとは思慮深さがあるんだなって思ったよ」
「し、思慮深さ…?」
「あとは責任感とかね。ほら、昔の思い出なんかほじくり返してないでご飯食べな!今日は今日の風が吹くんだよっ」
仁美はもう一発迅の背中にその手で一撃をかまし、キッチンの方へと向かっていった。
「いてぇっつの…」
明日の間違いだろ、と悪態をつきながらも、自分の中に果たして彼女の言う思慮深さや責任感というものが存在するのかどうか、迅はぼんやりと考えを巡らせ始めた。
実のところ、現在の迅は自身が所属している陸上部への不参加を決め込んでいる。
ただ陸上を好き好んで参加しているというだけならまだしも、彼は走ることに関しては右に出る者のいない、言わば短距離走の神童だった。昨日侑斗がエミリーに告げていたとおり、短距離走で彼に勝てる者はまず居ない。とんでもないと本人は謙遜こそすれど、間違いなく神速のランナーだった。舞台が記録会だろうが体育大会だろうが構わず、宛ら流星のように地を駆け、輝かしい数々の記録を叩き出していた。ところがある日、当時部長という大役を担っていたにも関わらず、先輩はおろか、同級生にまでもほとんど何も告げずにトラックから行方を眩ましてしまった。類稀なる才能があるのにどうして、と周囲は嘆いたものだったが、トラックの外では彼も脆く崩れやすい、普通の男子高校生だったのだ。思慮深さも責任感も、あの砂地に分別もせずに乱暴にかなぐり捨ててしまったというのに、母は何を言っているのか―――
「あぁ、そうだ」
彼の思考は仁美の声に遮られた。
「留学生さんがクラスに来たんだって?なんでも、すんごい可愛いとか」
「…噂広まるの早すぎだろ…」
白米を頬張りながら、噂の広まる速度におののいた。留学生が来るという情報だけなら伝わっていても何ら不自然ではないだろうが、「すんごい可愛い」という形容詞までもが既について回り始めている。転入早々恐ろしい程の注目を浴びているエミリーには同情してもしきれない。
「この際さ、彼女にしちゃいなよ!部活辞めちゃったら辞めちゃったで、青春しないとでしょ。うちの息子が留学生ちゃんゲットしちゃった〜なんてことになったらどうしよ〜っ」
きゃーっと仁美が年甲斐もなくはしゃぎながら突拍子もないことを言い出すので、迅は口に含んだ食物を吹き出しかけてむせた。
「げほ、……何言ってんだよ変なこと言うなよ!」
「あらら、もう意識しちゃってる感じかな〜?」
「か、からかうんじゃねぇよ!」
どもりながらも力一杯否定した迅を見やり、よしよし、と仁美。
「やっと普段の感じに戻ってきたね。その意気で校庭でも走ってきな!スカッとするよ」
「…お、おぉ…」
自分が調子を取り戻すところまで仕組んでいたとは。自分の全てを見透かされているような母の口ぶりに少々焦りつつ、迅はニュースをBGMにおかずを平らげ始めた。
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春が訪れたとはいえ、まだ四月上旬の早朝だ。迅はひんやりと冷たい朝の霞みの中を、学校指定の青いジャージを靡かせながら自転車で颯爽と駆け抜けていく。
琉晴学園は海を臨む小高い丘の上にある学園で、迅の自宅から琉晴までの道程はというと、住宅地を抜けたのちひたすら海岸線沿いに設けられた道路の上を海風に煽られながら真っ直ぐに進んでいくというものであった。風の強い日はとにかくその音が凄まじく、仮に隣を走る生徒が居たとして、その声が伝わらないほどのやかましさである。迅も気分の良い日は風の中でこっそりとお気に入りの歌を歌いながら道を辿ったりするものだが、今日は風が静かな上あまり気も進まないので大人しく口を結んで学園を目指すことにした。
そして登校の道の最後には、傾斜が急な長い上り坂が待ち受けている。言い換えれば、これが下校時には下り坂になるということである。迅が中学の頃も通学方向の関係でこの坂を上って登校していたが、同級生の間ではその傾斜を表して「心臓破りの坂」などと呼ばれていた。琉晴学園は陸上の名門校として名の知れた高校であるが、この坂が生徒の肺活トレーニングに一躍買っているのではないか、とまことしやかに囁かれている。
「…ふぃー…」
迅は上り慣れたその坂を立ち漕ぎでやり過ごし、学園への一本道へと入った。そこで軽く息を整えながら彼は、今日は杉本の言うところの新しいクラスでの自己紹介の日であることを思い出した。
―――今日は午後からクラス移動だったから慌ただしかったし、まともに新しいクラスメイトの顔も確認できなかっただろう。明日になって落ち着いたところで自己紹介してもらうから、考えておけよ。
しまった、と迅は一人頭を抱えた。昨日の放課後の一件でそれどころではなかったので、すっかり忘れてしまっていた。迅にとって、自己紹介は重要なイベントだ。普通の生徒ならば去年同じクラスだった生徒だとか、廊下で一度は見かけた生徒など、そういう生徒がクラス内に一人や二人は居るのだろうが、彼が一年の時は朝に走り込み、授業中に居眠り、放課後も走り込みといった毎日を過ごしていたので、日常生活の場面であまりクラスメイトと顔を合わせる機会がなく、むしろ部員以外で知っている人の方が少ない。つまり、現在のクラスを見渡しても、誰が誰だかさっぱりというわけである。
迅は目前に迫りつつある校門に挨拶当番の教員が立っていないことを確認すると―――なにせ早朝なので生徒はおろか教員もほとんど学校に辿り着いていない―――、そのまま事務員が開けたであろう門をくぐり、自転車を乗り入れていった。本来ならばその教員に叱られる行為だが、これこそ早起き族にのみ許される特権の一つである。
迅は学年が繰り上がったことで新しく指定された駐輪場の位置を確かめ、昨日与えられた自分の出席番号と駐輪する位置を照らし合わせ、自転車を止めた。
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「いっちょ気合い入れるか」
下駄箱から取り出した上履きを履き、二階へと続く階段へと向き直った迅は、肩から提げているエナメルバッグを抱えて踊り場の方にちらりと見える校舎の窓を見据える。その場から一歩後退して、長く息を吐き、
「おりゃっ!」
大きく踏み切って、二段飛ばしで一気に階段を駆け上がった。途中に挟まれた踊り場でのターンも手すりを持ちながら腕を半径とした円周上を回ることで無駄なくこなし、そのままトップスピードで二階へと辿り着いた。なかなかの身のこなしだった、と独り満足げに息をつくが、朝の校舎から記録会のように割れんばかりの拍手が起きるはずもなく、そのまま静かな廊下を振り返って歩き出した。昨日騒がしかった廊下も、朝の時間帯は静まり返っている。そして当然の事ながら、一夜明けても相変わらず迅の担任は杉本裕行で、何度確認してもクラスはD組である。その事実にげんなりしながらも、D組の扉を開ける―――
「……あえ?」
がらんどうと思われた教室の机の上に、ぽつんと既に一つ他のクラスメイトの物と思われる荷物が置かれているのを見て、思わず間抜けな声が出た。ランニングも見据えた早朝の登校にも関わらず先客がいたとは、と驚きを隠せないまま教室へ入っていくと、
「びっくりしたぁ。おはよう〜」
という、少しぼんやりとした男の声色が窓際の方から聞こえた。そちらを見やると、迅の視界の中、声の主であろう赤いセーターを着た男子生徒が、窓枠に命綱も付けずに、笑顔で手を振りながら腰掛けていた。
「はっ、」
次の瞬間には、引き戸のレールをスタートラインに見立て、くたびれた上履きの底でタイルを蹴っていた。
「早まるなぁあーー!」
刹那、迅は手に持っていた荷物をなりふりかまわず足元に投げ捨て、さながら稲妻の如き速度でその赤い男の元へと駆け出すと、彼の身体を校舎側へと引きずり下ろした。
「いてっ!な、なになに?急に」
教室の床に倒された赤い生徒は、その緊迫した状況に不釣り合いな呑気な声を出している。
「おまっ、…お前!新学期始まったばっかりなのに、身投げなんてするなよ!俺達の新たなスクールライフは始まってすらいないんだぞ」
「身投げ…?」
よく見るとその赤い生徒は赤い眼鏡を掛けており、ずれたそれを元の位置に戻しつつ、体勢を整えた。
「あぁ良かった、俺が早起き族で。命は無駄にするもんじゃないぞ」
迅は教室のタイルの上に座った体勢のまま、その生徒に人差し指を向けながら言い放った。しかし、
「ぷ、ふふっ、あはははは!」
赤い生徒は何がおかしいのか、迅の目の前で大声で笑い始めた。怪訝な顔でその様子を見ていると、
「やだなぁ、僕はただ、今日の星釣りを決行しようか考えてただけだよ」
と、返すのであった。
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「赤坂翔太」
「はい?」
赤い生徒が、制服のズボンの埃を払いながら立ち上がって唐突に何やら名前を口走るので、迅は面食らった。
「僕の名前だよ。赤坂翔太って言うんだ、よろしくね」
生徒―――翔太―――はふんわりと温かい綿飴のように笑って、そのあと丁寧にお辞儀した。
「俺は、黒羽迅。黒い羽に、疾風迅雷の迅だ」
迅は首跳ね起きでもって軽快に起き上がると、手に付着した埃を払いながらさらりと自己紹介した。が、どういうわけか、赤い綿飴はきらきらと満天の星空のように輝く瞳で迅のことを見つめていた。何かおかしなことでもしただろうかと、無意識のうちに居心地の悪さに唇が曲がる。
「ほわあぁ〜っ、今の、体育の先生がやる技だよね!すごい!」
どうやら翔太は迅のバネに感動していたようだった。すごいよ、と褒め称えられながら至近距離まで詰め寄られ動揺こそするものの、迅は褒められると少々調子に乗ってしまう性格だった。ふふんと得意げな笑みを浮かべたのち、それ程でもないよ、と顔とポーズを作って返す。
「ジャージ着てるんだねぇ、運動系の部活やってるの?」
宛らすばるのように煌めきながら、翔太が問うた。
ジャージを羽織った男に対して運動部なのか、という問いをぶつけるのは当然のことだろうが、迅の決まった顔は突如として矢に打たれたように瓦解してしまった。
「…まぁ、そう言われれば、そうなのかな」
「そうなんだぁ、かっこいいねぇ〜」
ポーズもとっくにやめてしまい、俯き気味になった迅のことなど知らぬ顔で、ダンシングフラワーのように左右に揺れながら翔太は輝き続けている。流石の迅も、今は放っておいてくれ、と言わんばかりにうなだれてしまった。ああ、まただ。迅の心象は昨日見たシーンを愚直に繰り返す。他人の声など聞きたくないと、目の前の男が預かり知らぬ事情のせいで、今日の晴れた空に反比例するように、心に暗い雲が押し寄せ―――
「僕の趣味は星釣りなんだぁ〜、今日は晴れてるし最高の星釣り日和だね」
一時停止のボタンを押された映像のように、暗雲がふと、心の片隅で立ち止まった。翔太は窓の外の青空を見やりながら、えへへへと頬を緩ませている。感じた微かな違和感に迅はうん?と唸った。趣味の話を唐突に始めたかに見えたが、とてもそうは聞こえなかった。そういえば昨日、留学生であるエミリーは自身の趣味を読書と答えていた。他にも音楽を聴くこととか、スポーツだとか、そういうものが趣味として挙げられがちだと考えていたが……果たして星釣りとは何のことだろう。
「えっとね〜、僕の好きな星はベテルギウスで、あ、同じ線でいくとアンタレスも好きなんだ」
その答えを提示することもなく、星釣りという見たことも聞いたこともない趣味が存在する世界線を前提とし、何やら語り始める翔太。
「ベテルギウスさんはねぇ、かっこいいおじさんなんだよ。僕は赤色超巨星の中でもベテルギウスさんとお話するのが一番好きなんだ。ベテルギウスさんの伝説、知ってる?ほんとにとんでもない恋物語だよねぇ」
ふふふ〜、と微笑みながら両の頬をもちもちと指先で押さえたところで、翔太はふと顔を上げた。迅がリアクションを取らなくなったことに気付いたらしい。
「静かになっちゃって…風邪でもひいちゃった?喉、痛いの?」
「いや、そんなことないけど…」
そこで翔太は思い出したように「あ、」と声を上げて、
「そういえば君の名前聞いてなかったね。何て言うの」
と、問うた。
その時、溜まりに溜まった持ち前の性分である迅のツッコミ気質が一気に爆発した。ドン!と一歩前に踏み込み、ビッ!と翔太の目の前に人差し指を構え、
「それはさっき名乗っただろうがーっ!」
と大声で叫んだ。
「大体何だ教室に入るや否や俺が目にしたのはあれだぞ顔も名前も知らないクラスメイトが窓枠に腰掛けてる姿だおかしいと思わねぇのかこんな朝っぱらからたった一人でそんなとこ座って普通身投げの予行演習だと思うだろそう思わないなら思わなくて良いよでもお前が言ったのは星釣りとか言ったな星釣りの決行の是非のためにそんな危ねぇ真似してたのか金輪際やめろっつか星釣りって何だよそれ何で上にあるもの釣ろうとしてんだよさっぱり分かんねぇよあと風邪なんかひいてねぇよ見りゃ分かるだろ俺はピンピンしてらぁそれに俺は今からランニングしに行くんだ何故なら俺が陸上部の部長にして現在幽霊部員の黒羽迅だからだ!黒羽、迅!だからだ!!」
ワンブレスでまくし立て、肩を上下させる迅。ぽかん、とする翔太。
「窓枠には座るな!分かったかっ!」
最後の一押しと言わんばかりに翔太の肩にばしんと音が鳴る程勢いよく両の手を叩きつけ、そのまま突き放すと、迅は息も荒いまま扉の方を振り返り、ずんずんと大股に歩いて出て行ってしまった。
「…ええと、」
迅の早口を思い起こす翔太。
「窓枠には座っちゃ駄目で、星釣りが何だか分からなくて、風邪ひいてなくて、幽霊…」
そこで目を見開き、
「えぇぇっ!幽霊って風邪ひかないんだ!!」
と大声で叫んだ。
知ったことではない。
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「黒羽迅って言います。黒い羽に、疾風迅雷の迅と書きます。あー…特技は、走ることと、寝ることです。好きなもの…?走ること、です。よろしくお願いしまっす…」
久しぶりに大声を上げた、と朝にワンブレスで捲し立てた自分のことを振り返りながら、迅は至極適当に自己紹介を終えた。結局のところ、最後までまともな自己紹介が思いつかず、別段面白いことも言えなかった。侑斗が安心しろ、お前のホントの良さは初対面じゃ絶対分かんねぇからさ!と、肩を小突きながら小声で励ましてくる。慰められているのかも分からない。
「しかし赤坂って奴、初っ端からぶっ飛ばしてきたな」
名簿順で始まったこの自己紹介は当然名字があ行の生徒がトップバッターを務めることになるが、D組で一番早い名簿番号の生徒が翔太だった。今朝方のことは二人きりだからこそ起きた偶然の事象だと迅は考えていたが、甘かった。迅が浴びせられたのと殆ど内容の変わらない、さっぱり意味が分からない異星語を聞かされる羽目になったのだ。担任の杉本はと言うと、おもしれぇおもしれぇとノートに何やら書き付けていたが、迅をはじめとしたクラスメイトの頭上には当然だがクエスチョンマークが浮かんでいて、紹介が終わった後の拍手も戸惑いがちであった。
「今日の朝喋ったんだけど、とんでもない奴だったよ」
「マジで?よく生きて帰ってこられたな」
「ま、命を脅かす存在ではないし…」
二人で談笑しているうちに生徒の自己紹介が無事に終わったようで、拍手が起こる。
「…ってことは、次が俺か。行ってくるぜ〜」
いつの間にか、名字がは行の侑斗まで順番が回っていたらしい。おー、と適当な返事をして、迅は後ろ姿を見送った。
「こんちは!降矢侑斗って言います!矢が降ってくると書いて、それで降矢!侑斗は何て言うか、説明できねっス!迅、じゃないや、黒羽君とは同じ陸上部で、……」
自己紹介に自分の名前が出てくるか出てこないかという辺りで、迅の意識は壇上から離れてしまった。今の自分は気の利いたことなど言えないなと、迅は短く溜め息をついた。昔は湯水のように口を開けば面白いことばかり口走っていた―――わけではないが、それでも明朗にはきはき喋っているだけでも囁き笑いくらいは取れた。そう、この静かな英国少女相手だって、口の端が吊り上がるくらいの…と、隣に座っているエミリーが意識に浮上してきた。実際の彼女はというと、誰の自己紹介を聞いても全く笑わず、眉もひそめず、かと言って興味がない素振りを見せているわけでもなく、そんな状態で一時間近く背筋を伸ばしたまま微動だにしていない。いよいよ彼女は本当に生きているのかと不安になってきた。彼女にする以前の問題だろと、朝の食卓で揶揄ってきた母に訴えかけながら苦い顔になる。
「なぁ」
エミリーその人の方は向かずに、さりげなく、小さな声で机に向かって呼びかけみる。
「はい」
エミリーが反応した。その鈴が鳴るような声で返事をすると、迅の方へ真顔のまま向き直る。それはこれ以上ないといったようなシンプルな真顔で、感情の一切を削ぎ落としたような、そんな表情だった。
「…退屈?」
横目でその表情を窺いながら迅がそう話しかけると、エミリーは小首を傾げる。
「そう見えるでしょうか」
さらり、と真っ直ぐなブロンドの前髪が横に流れ、僅かな隙間から額が覗いた。まるで陶磁器のように滑らかで真っ白な素肌だった。
「いや、何というか…退屈じゃないかなあ、って、心配になっただけ」
エミリーは、反対の方向に首を傾げた。今度は前髪が、逆の方へ流れてゆく。
「いいえ、楽しませて頂いていますよ。心配ご無用です」
「ん、なるほどね」
そうは見えなかったからさ、とまでは言わなかった。だってこれでは、まるで『他人の自己紹介を最後まで一言も聞き漏らすな』と命令された機械人形のようだからだ。一体彼女は、誰に強いられて背筋を伸ばしているのか、何に表情を封じられているのか。少しくらい姿勢を崩したって、足の位置をずらしたって構わないではないかと、何故か迅の方が辟易してしまった。ふとそこで、先日の侑斗の少しくらい型から外れたって良いではないか、という言葉が思い返された。その通りだと、迅は目を伏せた。もっと、自由で構わないのに。
―――俺は、誰に強いられて陸上から遠ざかっているのか。
自分に意識が向いた途端に、ぐっと眉間にしわが寄るのを感じた。迅は足元へ流れ落ちてしまうほどに背もたれに身体を預け、ほとんど斜めになった姿勢でふーっと息を吐いた。処理しきれない黒い感情を相手に、出ていけと念じるほかなかった。
「…黒羽君」
「…うん」
エミリーに声をかけられ、気怠い体勢から彼女の方を見上げる。すると、
「…っ」
頭上から、度の強いレンズ越しの青いガラス玉のような瞳が、真っ直ぐに迅を捉えていた。その全く揺れない瞳孔の色に、思わず肩が跳ねる。
「大丈夫ですか。やはり、具合が悪いのでは」
「…だ、大丈夫。何でもないんだ、本当に」
その深い青から、全く目を逸らすことができない。と、ここで初めて少女の瞳を真正面から覗き込むことになるが、ラムネ瓶の中で弾ける泡のように、もしくは仄かに光を放つ月の石を丹念に手で割ってできた砂子のように、瞳の中に煌めきが散りばめられている。機械人形の瞳はこのように輝くだろうか。そんな筈はない。そこで迅は直感的に思った―――この青い海の中に、何かが閉じ込められている、と。
「本当ですか」
「…うん…大丈夫、ばっちり健康体だからさ。心配いらない」
重心を移動したことで椅子が音を立てるのにも構わず慌てて姿勢を正し、親指を立ててみせる。
「…そう見えなかったかな」
不自然な笑みになるのを感じながら、そう問わずにはいられなかった。なにぶん昨日も今日も全く同じ問いをぶつけられているのだ、こちらの名誉にも関わる。
「……」
どうしたことだろう、エミリーは視線を足元へ逸らすと、少しだけ俯き気味になった。それも束の間のことで、彼女はすぐに顔を上げ、再び青い瞳が覗いた。
「何とも申し上げにくいのですが、話しかけるべきだと判断されたため話しかけた…と言っておきます」
「そ、そうなんだ」
よく、分からなかった。それは結局、どういうモチベーションから来る発言なのだろう。
「……」
待てよ、モチベーション?迅は自分の脳裏に現れた言葉を反芻して気付いた。自分は確かに今しがた、この機械人形のような少女に、何かを為そうという意志の欠片を見出したのだ。まさか、そんな馬鹿な。
「黒羽君。私の顔に何か付いているのですか」
「は、」
意識を眼前に戻すと、やはりエミリーが背筋を伸ばして其処に座っていた。いや、別に、と首を振りながら改めて彼女の様子を窺うが、どう見ても宛らオーダーメイドのロボットのように所作に寸分狂いがなく、生気を宿している気配も無かった。
「エミリー、…ってさ」
「はい」
挙句、ノータイムで返答がなされる。そのセンサー感知でもしているのかと言わんばかりの不自然な応対、抑揚のない声色。
「…なん、て言うか…」
しかし、瞳の奥に何やら小さく煌めく光を宿しており、意志の欠片をちらつかせるのだ。一体この無機物少女は、どういう存在なのだろう。迅は複雑な気持ちのまま頬を掻いて苦笑いし、
「無機物みてぇだな」
とだけ伝えた。