あa

2-04 心、走り出す

青空、海風。
週末に天候観測隊の活動をする時は晴れの日が多い、と自転車を走らせながら空を仰いだ迅は思った。夏に心残りでもあるかのようなアンニュイな色の晩夏の空が、綿雲をぽんぽんとコラージュのように添えて遠くの方まで続いている。ここまで晴れが続くと、天候観測隊の誰かしらが晴れ女・晴れ男なのではなかろうかと思う。
迅は初夏に観測隊の活動場所として使われた公園を目指していた。その折に中学時代の陸上部の同級生である仁井田颯人と出会い、陸上部にまつわる思い出話―――というほど可愛いものではなかったが―――に発展し、自分のこれまでのことを隊のメンバーに告白することになった。そんなこともあったなと、迅は一人苦い顔になる。颯人が公園に居たのも当然だ。あの公園は元々、迅と颯人が中学時代にトレーニングのために頻繁に訪れていた公園なのだ。
「…おい」
颯人は勿論のこと、翔太やエミリー、麻望に初めて自分のこれまでのことを告げた。自分ばかり話をするのは苦手だったが、彼らはただ静かに迅の話に耳を傾けていた。普段なら麻望が携帯端末を弄りはじめ、翔太あたりがふらっと会話を抜け出して空模様を確認しに行ってしまいそうなものだが、彼らは真摯に耳を傾け迅の悩みを受け止めてくれた。いつの間にそこまでの仲になっていたのだろうと、迅は首を傾げる。
「おい」
もしかすると今日も颯人がランニングをしているかもしれない。出会ったら声を掛けてみようと、迅は思い立った―――
「黒羽ァ!聞いているのか貴様!」
「はっ、はい!?」
突如信号待ちの最中に大声でまくし立てられ、迅はサドルの上でびくついた。声のする方向を顧みれば、そこには先日D組に迎え入れられた留学生のエドワードが私服姿で仁王立ちしていた。
「な、何だエドか…いきなりでびっくりした…」
「いきなりだと!?さっきから何度も呼びかけているだろうが、このスカタンが!」
「ひぃ、そうだったんスか、スンマセン…」
スカタンなどという複雑怪奇な日本語をも使いこなすエドは日頃の騎士服ではなく、紺色のポロシャツにベージュのパンツを合わせた、いたってシンプルな服装だった。なるほど、服装が変わると印象もガラリと変わる…などと悠長なことを考える間も与えず、エドは続ける。
「む、貴様は自転車か。近くに住んでいるのか?」
「いや。自転車乗るのが好きだから乗ってきたんだ」
エドはどうやら徒歩のようで、聞けば家で使用人―――エミリーのところの爺やと同じような人だろうか―――を雇っているらしく、近くまで車で送ってもらったという。迅は彼に歩調を合わせるべく、自転車を降りた。


つい先日のことだった。放課後にエドが意を決したような硬い表情で翔太の元を訪れ、
「僕を貴様のクラブに入会させてほしい」
深々とお辞儀をしながら唐突に申し入れてきたのだ。
話の流れはこうだ。
不遜な態度、行き過ぎた過ち、諸々のことは申し訳なく思っているので、どうか水に流してほしい。それはさておきお嬢が入っているクラブともなれば僕が着いていかない理由はない。これまでに何もトラブルが無かったとは聞いているが、僕が居ない間に突然の天候不良、怪我など、お嬢の身に何が起こるか分かったものではない。その瞬間に彼女を救えないのは自分のポリシー的にもまっぴら御免なので、活動に同行すべくクラブの一員として迎え入れてほしい。ということだった。
天候観測隊のことを誰から吹き込まれたか分からないが、エドは真剣な様子だった。かたや翔太は日頃ぼんやりとしている表情を、輪をかけてぼんやりとさせながら話を聞いていたが、うーん、と首を傾げて何やら熟考したのち、
「仲間の数は多いほうがいい!オッケー!」
と、快諾した。
というわけで唐突ながら、エドは天候観測隊に加わることになった。エミリーは特に何もリアクションを取らなかったが、麻望は分かりやすいほどに不快感を示した。「これからのアンタに期待ってことで」としぶしぶ承諾したが。


エドを交えた活動は今日が初めてだった。悪い天気でなくてよかったと、迅は心の底から安堵した。仮に天気が荒れていたとして、エミリーが自分で傘を差しながら雨に肩を濡らしているさまを見たら最後、エドは泥濘む足元にも構わず駆け出して彼女の荷物と傘をぶん取ってそっと上着を羽織らせたのち、こんな肌寒い日に活動をさせるなどどうのこうのと激昂するのが関の山だからだ。
「しかし、日本は9月でもこんなに暑いのか…信じられん…」
見れば、エドが歩を進めながら眩しい太陽光を忌々しげに手で遮っていた。
「このあたりは海風で涼しい方だけどな。琉晴近郊でも、内陸の方に行くと蒸し暑いよ」
「信じられん…」
その存在を主張するように、風が勢いを増して両名の間を勢いよく通り抜けていった。ごうごうという音が耳元で鳴る。ひょっとすると今のイギリスはそんなに暑くないのだろうか、と迅が想起するのとほとんど同時に、
「僕の故郷は真夏でも30℃を超えたりしないんだ。日本は恐ろしい国だな」
と、零した。

その公園は、ちょっとした高台にあった。遠くの方に海の見える広めの公園だ。海を背にして坂道をしばらく上っていくと、その公園の入り口が見えてくる。
「あ、来た来た!おはよ~」
待ち合わせをしていた公園の入り口に二人で並び立つと、聞き覚えのある声に出迎えられた。翔太だった。
「これで誰も遅刻しなかったよ。隊員諸君、真面目で結構」
わははは、と翔太は噴水広場を背に笑った。その後方では、エミリーと麻望が何やらアルミ缶と格闘している。
「よう、……」
「おはようございます、お嬢!」
迅の挨拶を遮る勢いで、エドが丁寧に挨拶をしてみせた。麻望は心底不快そうな顔でひらひらと手を振ったが、エミリーは迅とエドの訪れに気付くと、軽く会釈をして、
「お早うございます、迅君。お早う、エドワード。麻望さんが嫌がっているからあまり仰々しくしないでね」
と、開口一番母語でもって叱責をかました。えっ、とエドワードが面食らうのと時を同じくして、五人は輪の形に集まった。
「珍しいもん飲んでるな」
エミリーと麻望が手に持っている缶はどうやらラムネ風味の炭酸飲料のようだった。
「この子、炭酸飲んだことないらしくて。挑戦したいって言うから付き合ってんのよ」
ね、と麻望がエミリーに声をかけると、エミリーは首を縦に振って応じた。初めてというだけあってエミリーは爽快な炭酸の刺激に不慣れなようで、ちびちびと口に含みながら、ぴぃ、と抑揚のない謎の悲鳴を小さく上げていた。
「挑戦ねぇ…」
長い溜め息をついてエドはぴぃぴぃと悲鳴を上げているエミリーの固まった無表情の顔を見、エミリーの持つ炭酸飲料を見…と交互に視線を向けていたが、
「いちいち突っかかってきて腹立つわね、アンタこそお嬢離れに挑戦しときなさいよ」
と、麻望が噛み付いた。
「何だと貴様」
「何よ?」
「まあまあまあ、落ち着いて!」
ぴぃぴぃエミリーを挟んで火花を散らし始めた二人だったが、迅がその火花のかち合う線上に立ち塞がり、なんとか戦いを遮った。
「エドも麻望もピリピリしすぎだぞ、な」
「はい、この飲料、大変ピリピリです」
「いやエミリー、そうじゃなくてね?」
「僕もお空とピリピリしてこようかな~」
「おい、お前がどっか行ったら活動が始まらないだろ!おい、翔太ァ!」
青空、海風。
あまりにも自由な活動が幕を開けた。


--
「これが、気温計。直射日光を当てると温度が上がっちゃうから、なるべく日が当たらないようにね」
「いつも12時くらいにこの公園で気温と湿度のデータを取ってるんだ。こういう局所的な気温のデータや雲の動きも、リアルタイムの天気予報に活用されているんだって」
「5、4、3、2、1…お願いしま~す」
「やったねぇ!じゃあここに観測者の名前を書いてね」
「これ、僕が大好きなスイーツのお店なんだ。今度行こうよ」
「あそこの木陰でいつもお昼を食べてるんだぁ」

エドは翔太と迅に付いて、直射日光の下で天候観測隊の週末の活動について教えを請うていた。彼は気温や湿度の計測の方法について―――ひょっとすると、翔太の好きなスイーツの店についても―――至極真面目にメモを取っていた。かつて彼がエミリーの粛正に落ち込んでいたとき、その大きな背中を丸めて縮こまっていた姿が印象的だったが、立って迅や翔太と並んでみるとかなりの高身長で、彼らの背丈をゆうに超えていた。
「ああいう真面目なところは良いんだけど」
麻望は特大の溜め息を交えて、エドについての不満をぶちぶちと零していた。エミリーと麻望は翔太の言うところの木陰に座り込んで、男衆が日向や日陰を行ったり来たりしながらわいわいと観測活動をおこなっているさまを眺めていた。
「大体アイツ、アンタの幼馴染っていうじゃない。ほんとに知らないの?」
「存じ上げておりません。記憶にないというのが正しいかも知れません」
エミリーは首を振る。誰に何度聞かれても答えはノーなので、本当に知らないのだろう。エミリーは「ただもし、」と言葉を紡いだ。
「彼の故郷が私の故郷と同じならば、私が彼の顔馴染みである可能性も高くなってきます。そして本当に私が彼の許嫁なのだとしたら、いよいよ手を打つ必要があります」
手を打つ、と言って、口元に手をやったエミリーは、その無表情が与える不可思議さとクールな印象ゆえに、まるで聡明な参謀のようにも見えた。
「アタシはアイツとアンタが結婚するのなんて見たくないわ。式に呼ばないで」
麻望は腕を組んで眉間に皺を寄せ、フン、と鼻を鳴らしてみせた。
「もし両家の間で正式な取り決めがなされていたのであれば最早致し方ありませんが、麻望さんの頼みであれば善処します」
ぺこり、と頭を下げるエミリー。
「そうして。あ、そういえばサイダー、美味しかった?」
既に飲み干して捨ててしまった炭酸飲料の缶のことを想起しながら、麻望は問う。
「はい。刺激的でしたが、楽しませて頂きました」
「ならよかった」
そこで二人の会話は途切れ、入れ替わって沈黙が訪れた。浜や港湾部では海風が力強く吹き渡っているが、この公園のような内陸部にもなってくると多少は穏やかになり、まだまだ夏の暑さを終わらせまいと火照ったコンクリートを撫でている。肌を冷やすのには十分だ、と、日差しの中であっちー!と声を上げている迅をぼんやりと見つめながら、麻望は思った。
「許嫁、か…」
麻望はぼそり、と零した。許嫁というのは、結婚を約束された相手のことだ。恋や愛を経てやがては結婚に至るのだろうか、などと日頃から考えを巡らせている麻望には、僕は貴女の許嫁なのだと突然現れた留学生に言い渡されたエミリーの気持ちなど、皆目検討もつかなかった。心から結ばれている相手とならまだしも、家の取り決めで定められた結婚など、どう受け入れろというのか。麻望は思った、端正な顔立ちの男性が突然自分の前に現れ、ずっと両親が隠してきたかも知れないが、君は僕のフィアンセなんだ、ぜひ結婚してほしい、と言い渡され、恭しく頭を垂れる時、自分はどう思うのだろうかと―――
「麻望さんは私に結婚してほしくないのですか」
「は!?」
思考の海を漂い始めたところで突然エミリーが脳の外から突拍子もないことを口走るので、麻望は悲鳴を上げた。
「してほしくないって、別にそういうことじゃないけど…」
慌てて取り繕うが、
「そうでしたか。麻望さんが感傷的な様子だったので、私が居なくなったら寂しいのかと思いました」
エミリーは相変わらず淡々と、無表情で返答するだけだった。
「……」
感傷的という言葉に、狼狽していた麻望の心持ちは一挙に冷えてしまった。同性であるエミリーが自分より先に自分の知らない場所へ行ってしまう時のことを想起する。エミリーだけではない、琳や、迅に想いを寄せていた聡子など、彼女らが自分の知らない場所へ旅立ってしまったとしたら。
「……寂しい、とは思う」
麻望は珍しく自分の感情に対して素直に、エミリーに伝えた。
「成る程そうでしたか。ともすれば、ますますこの件に関して早急に手を打たなければなりません」
何を思ったか、エミリーは麻望の手を取って、上、下、と優しく動かして、そう応じた。
「consensusが得られましたので、結果は必ず貴女にお伝えしましょう」
コンセンサス?と首を傾げている麻望は、何故かは分からないが、今のエミリーは目を輝かせていて、挙動も少女のそれのように軽やかで非常に嬉しそうだ、と感じた。無表情で感情に抑揚のない彼女に勝手に感情を見出すなんてアタシおかしいのかしら。麻望は居たたまれないような気がして、肩をすくめた。


「二人とも何だか楽しそうだな」
日陰のエミリーと麻望が談笑している様子を見遣り、迅は顔をほころばせた。
「気が合うか心配だったけど、仲良くしてるみたいでよかった」
「女の子って分からないものだねえ」
翔太も、うんうんと頷いている。
「赤坂にも、楽しそうに見えるのか」
対して、エドは神妙な面持ちでエミリーの方を眺めている。何処か寂しそうに憂いを帯びた表情に、迅と翔太は思わず顔を見合わせた。
「うーん、そうだねぇ、初めてエミリーに会った時はもう少し硬い感じだったけど」
翔太もまた、エドと同じようにエミリーの方を見遣って、
「今はだいぶ表情が柔らかくなったなぁって、思うよ」
と、応えた。柔らかくなった、と評されたエミリーは、彼らの視界の中で相変わらずカチコチの無表情のままで麻望と談笑している。
「……そうか」
エドは相も変わらず、神妙な面持ちだ。
「……」
「……」
「……」
迅と翔太は、エドの真意を図りかねていた。最初から無表情・無感情―――に見える―――状態だったエミリーが彼らにとっての真実であり、むしろ笑顔や年相応な可愛らしい振る舞いの方が珍しいのだ。しかしエドは、そんなカチコチのエミリーの姿を見る度、厳しく見える顔立ちが更に厳しくなり、やがては信じ難いほどに寂しそうな表情を見せるのだ。彼の心を揺さぶる理由の八割は愛するお嬢だと言っても過言では無いと、ほんの少しの時間しか触れ合っていなくとも迅と翔太は理解していた。だからこそ彼が寂しげな時は、エミリーとの間に一体何があったのだろうと気にならずにはいられなかった。
「…エド」
「ン」
迅が声をかけると、その影を落としたような表情はすっと消えてしまい、煙たがるような顔になる。これも分かりやすい。迅に対するあからさまな不快が滲み出ている。
「俺、エドのこと何も知らないし、聞いてみようと思ってたんだけど」
迅がそう声をかけると、翔太は来たぞと言わんばかりにむっと唇をくの字に結んで、固唾を呑んで見守った。
「お前さ、」
「……」
「めちゃめちゃ鍛えてるけど、何かスポーツとか得意なの?」
ずこー!と、声を発して翔太は何かにつまずいたようなコミカルな動作をした。え、と迅は間の抜けた声を添えて彼を省みたが、僕も気になるから続けて、と翔太はへにゃへにゃと笑っているだけだった。
「僕の家は剣術の道場なので、それを習っていたが…」
エドは口元に手をやって首を傾げていたが、
「ああ、たまの気晴らしに、庭でテニスやバドミントンをしていたぞ」
と、思い当たったように応えた。
「剣術…日本でいう、剣道みたいなやつ?」
「バドミントン!」
迅は剣術という聞き慣れない言葉に頷いていたが、翔太が反応したのはむしろ後者の方だった。
「迅、エドとバドミントンして遊ぼうよ!ほら、ここにラケットがあるからさ」
じゃーん、と翔太が出してきたのは、バドミントンのラケットと、羽根だ。
「…前も思ったんだけど、何で翔太ってそんなに用意が良いの?しかも2セットもあるし…」
「ふっふっふ。エド、こう見えて僕、アクティビティ担当なんだ」
翔太はぺかぺかと微笑みながらラケットを片手間にひゅんひゅんと振り始めた。
「…そういう役職なのか?」
「いや、そんなの決めた覚えないっつか、あいつ部長だけど…」
困惑のあまりエドと迅は思わず顔を見合わせたが、エドの側がはっと弾かれたように目を見開き、ぷい、と音が出るほどの勢いで迅から顔を背けてしまった。迅は思わず苦笑したが、
「ま、せっかくだしさ、やろうよ」
と持ちかけた。


--
「うッ、何だこのショットは!?黒羽、貴様が何とかせんか!」
「言ったろ!?翔太のポテンシャルがおかしいんだって」
「20(トゥエンティ)、マッチポイント、4(フォー)」
「お嬢、本当にマッチポイントなのですか!?」
「そうです。赤坂君は強いのです」
「これでとどめだ!そりゃー!」
「ぐぁあ!駄目だ、拾えんッ」
「…オトコって本当にバカね…」
迅・エド対翔太の構図で対戦していたが、エミリーと麻望も何だ何だと日向に出てきたので、結局五人揃ってバドミントンに興じていた。正確には男たちが興じていて、その様子をエミリーと麻望が眺めていただけなのだが。
「く、屈辱だ…この僕が貴様に負けるなど…」
「はっはっは、師匠って呼んでもいいんだよ」
へたりこんだエドと、立ったままで上機嫌に笑っている翔太。何故だろう、前にもこんな風景を見たことがあるかも知れないと、迅は野原に倒れ込んだ体勢で、荒れた呼吸に胸を上下させながら、彼らの問答を傍観していた。

迅は、視線を空の彼方へと移した。集合したときと相変わらず青一色のままの丸い天井が、どこまでも広がっている。ミャアと鳴いたのでウミネコだろうか、ふと翼の長い海鳥が一羽、視界を右から左へと横切っていった。その優雅に舞い踊るような飛行を、目で追う―――
「また遊んでいるのか、黒羽」
と、空の青に対して眩しいほどの真っ赤なジャージの男が、左の方から顔を覗かせた。唐突な出会いだったので、迅は思わず飛び起きた。
「颯人!居るなら声かけてくれれば良かったのに」
「バドならしないぞ」
迅が髪に纏わり付いた芝を落としながら上半身を起こすと、意外にも、というよりはやはり、灼鷹高校の仁井田颯人が立っていた。
颯人は他の天候観測隊の面々の方を見、ぺこり、と一礼すると、迅に向き合った。
「彼は?新入りなのか」
彼、と言って颯人が指しているのは、無論エドのことだ。迅と颯人の視界でエドはこちらを訝しげに見つめていたが、翔太に軽めのショットを肩の辺りに当てられ、痛いじゃないか、何するんだ、と激昂していた。
「そ、二学期から琉晴に留学生として来た生徒で、うちのサークルに入りたいって言うから、迎え入れたんだ」
「なるほどな。しかしお前のサークルはずいぶん国際色豊かだな。お前、英語なんかろくに喋れないくせに」
クス、と颯人は悪戯っぽく笑ってみせた。鉄仮面の彼にしては珍しい笑顔だったので、迅は思わず面食らってしまい、うるせえな、と小さく悪態をつくのに留まった。国際色豊かと称された天候観測隊の面々はというと、翔太を除いてバドミントンに疲れ始めており、各々野原に座り込み、赤坂くんはバドミントンクラブに居たのですかだの、お腹すいただの、日焼け止め塗らせてだの、再び隊としての結束が緩み、自由行動を始めていた。エドはその談笑には混ざらず、迅と颯人の方を横目で窺っている。
「しかし驚いた。黒羽、陸上部に戻ったらしいな」
何処から話が漏れたのか、つい最近のことにも関わらず、颯人は迅の帰還を知っていた。
「噂が早いな、その通りだよ。おかげさまで今一番力を入れてる練習は準備運動とストレッチだ」
「お前が言うと重みが違うな」
「だろ?」
ははは、と、ここで一笑い。
「怪我癖には気を付けるとして、ぼちぼち追い上げていきたいとこだな。でもま、小休止も大事でしょ、ってことでね。俺も今日は久しぶりのオフだよ」
昔怪我をした足の感触を確かめるように迅はとんとんとつま先を地面に当てる。そして、ああ、と零して、
「颯人、いつか週末に飯でも行こう。侑斗も聡子もお前に会いたがってたし、みんなでひとっ走りしようぜ」
と続けた。颯人は少し驚いた様子だったが、ふっと笑みを浮かべて、
「寂しがりめ、仕方ない奴だな。いつでも連絡してこい」
と、嬉しそうに肩を叩いて応じた。そして、じゃあこれで、と颯人は手を挙げ、失礼した、とエミリー達に頭を下げると、再びランニングへと戻っていった。

「良かったですね、迅君」
エミリーが、迅の元へと芝をさくさく踏みながら歩み寄る。普通ならば穏やかに微笑みながら発するような台詞を、真顔でもって吐いてみせた。が、
「だな。颯人、元気そうでよかった。笑ってたし…もしかして、俺が陸上始めたからかな?」
迅はエミリーの真の表情を汲み取ったが如く、彼女の方に向き直ると、頬をぽりぽりと掻きながら照れ臭そうに笑顔で応じた。
「……」
エドは敢えて止めに入ることもなく、ただその様子を見守っているだけだった。


「いやー今日もいっぱい遊んだねぇ!楽しかった~」
「回を追う毎に観測活動よりアクティビティ重視になってきてる気がするけど…」
「麻望、細かいこと言うなよ。楽しけりゃ良いんだって!エミリーも無事に炭酸デビューできてよかったな」
「はい。これから徐々に慣れていこうと思います」
昼食と洒落込むべく、一行はわいのわいのと隊列を組んで公園を後にしていた。街路樹の木漏れ日と影とがモザイクのように散りばめられた坂道が、海の方へと長く続いている。時折、休日の晴天の陽気に任せたご機嫌な車が何台か、坂道にも関わらず速度を上げて下の方へと走っていった。
「エドは、……」
迅が騒がしい隊列の中で振り返ると、エドは俯きがちのまま押し黙っていた。爽やかな陽気にそぐわぬ厳しい表情は、迅の紡ごうとしていた言葉を霧散させてしまった。翔太と麻望、そしてエミリー達の足音、話し声、迅の自転車のペダルが空回るチリチリという音、声高に頭上遙か高くで鳴いてみせたウミネコの鳴き声、それら全てが目の前のエドの佇まいだけを残して遠くに行ってしまうような感覚に、迅は軽い目眩を覚えた。
「……何だ」
エドは鬱陶しいような素振りを見せたが、活動前に会話を交わした時のそれよりは力ないものだった。
「…エドは、楽しかった?」
迅は、自転車が坂道を転がってしまわないようにブレーキを握りながら、そう問うた。遠くに行ってしまうような感覚は現実のものだったのかもしれない。エドと迅は前方の集団から少し距離を離されていた。
「…貴様が居なかったら楽しかったのかもな」
エドは力なく零した。日頃の横暴な態度ではなく、果たして彼の真意は言葉通りなのか疑わしい。
「それは、ごめん」
迅は木の葉模様のモザイクの坂道に目を落としながら、静かに詫びた。チリチリ、チリチリ。ペダルは空回りしている。
「…貴様にだけお嬢の本当の表情が見えているわけではあるまいな」
唐突に問いかけられたので、迅は面食らう。とても抽象的な問いだ。どう答えるのが正しいのだろう。
彼は再び目を前方の集団に向けた。談笑している三人―――気付けば、翔太と麻望がまた何やら言い合いになっており、エミリーが淡々とした声でもって諫めている―――の背中が目に映る。エミリーその人の長いストレートのブロンドの髪を、晩夏の風が穏やかに撫でていた。
「本当の表情っていうのは、…よく分からないな…俺や翔太、麻望にとってのエミリーは、無表情なのが平常運転だし」
迅はまず、ありのままの事実を伝え、
「でもしばらく一緒に居たら、ある程度は感情が読めるようになってきた…と思う。だから、エミリーが嬉しそうにしてるときは、一緒に喜んでるけど」
と、思い込みにも等しい自分の考えを続けた。
「…成る程」
エドは、静かに頷く。そして、
「黒羽、貴様はお嬢の笑顔を見たことがあるんだな」
と、何故か確信めいた様子で、そう言い放ったのだ。
「…………え」
お嬢、エミリーの、笑顔。その言葉を鼓膜でもって受け止め、聴細胞を介し、脳で理解した迅の海馬は、押し留めようとしたにも関わらず言葉にまつわる記憶を参照した。夏、夜風、黒くうねる海、愛でられた人形のように儚く美しく、可愛らしい無機物少女の、誰にも見せたことのない微笑―――迅はその記憶を反芻するのとほとんど同時に、顔に血が上っていくのを感じながらも、それを止めることはできなかった。
「……あ……あははっ…そいつは、果たして、どう、かな…」
最早取り繕うことなどできずに、顔から火が出そうなほどに真っ赤になった迅は、エミリー顔負けのカチコチな返答を繰り出してしまった。それを見るなり、エドは眉間に皺を寄せ、フー、と長い溜め息をつくと、
「成る程」
と、心底不快そうに零した。
そういえば、と先頭集団はエドと迅との距離が開いていたことに気付いて振り返ったが、その頃には迅が狼狽しながら自転車を押し、エドは眉間に皺を寄せたまま何やら思考を巡らせているだけで、何が起きたのか推し量ることが叶わない状態だった。
チリチリ、チリチリ。ペダルはただ、空回りしていた。