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2-05 なんか、変だ

「ふんふんふ、ふふんふん」
昼休みを迎えたD組の教室は、学業と定義された圧力から解き放たれ、今や気相となった生徒たちの運動エネルギーで溢れかえっていた。数多の分子が蠢く熱運動の喧噪から距離を置くようにひとり、赤坂翔太は窓際に腰掛け、流行りのJ-POPをささやかな鼻歌でなぞっていた。
「ちょっと。赤坂クン」
熱運動する分子の合間を縫って、侑斗がひょっこり姿を現した。まるで周りの目を憚るように呼びかけられたので、思わず鼻歌ラジオを中断する。
いつも快活にはしゃいでいる侑斗が囁き声で話しかけてきたので、翔太はどうしたのと首を傾げた。
「あのさ…」
侑斗はまるで甘味を期待して食らい付いた菓子がほろ苦いコーヒー豆だったかのように渋い顔で腕を組みながら、
「週末、迅に何かあった?」
と、問うてきた。


時は朝。侑斗は迅と朝のランニングに赴くべく、D組の教室を目指して廊下を闊歩していた。そして月曜日の鬱屈とした空気を跳ね飛ばす勢いで、
「おはよーニッポン!」
と高らかに挨拶をかまして教室に入ったのだが、
「……」
先客の迅が居た。彼は侑斗が気付かないほどに気配を殺し、密やかに自分の席に座り込んでいた。
「お、おい迅、居るなら居るって言ってくれよ。せっかく昏い日本に高らかに夜明けを告げてやったのに、恥ずかしいじゃんかよ」
照れ隠しも兼ねて、侑斗はワックスを付けたことも忘れて自分の髪を無造作に引っ掻き回したが、
「……ゆ、侑斗か、おはよう」
迅は撃たれたようにびくりと身体を震わせ、口の端を吊り上げるような不自然な笑みを浮かべ、手をひらひらと振って応じた。
この時点で侑斗の第六感は『今日の迅は何かがおかしいぞ』と告げていた。思い過ごしの可能性も否めないため、特に言及せずにグラウンドへと向かったのだが。

「……って、颯人が言うんだよ。律儀に連絡してくれるなんて、アイツもああ見えて可愛いやつだよな」
話を振っても、
「九月だってのに太陽も元気だよな。秋が一生来なかったらどうするよ?俺のかっちょいいオータムスタイルは、一体いつから披露できるのカナ?」
冗談を投げかけても、
「あ、迅、寝癖ついてるぞ。このまま教室に戻ったらイケメンが台無しだ」
寝癖を指摘しても、
「……」
迅の意識は木星の台風の目の中に異界への入り口を覗いた宇宙飛行士の如く、地球に戻ってこなかった。一体俺の友達はこの週末でどうしてしまったのだろうと、
「さっきからぼうっとしてるけど、どうかしたの?」
そう問うてみたが、
「…え、…別に何も」
彼の意識は突然地球に戻ってきて、安否を報告し始めるのだった。
侑斗は思った、『今日の迅は何かがおかしいぞ』と。この時点で疑念は確信に変わった。どんな話題でも叩き起こされなかった意識が「どうかしたの」と問うただけでカムバックし、挙げ句不自然なまでの取り繕いを始めたのだ。何も無いはずはない。
事情が気にかかったが、ここまでぼうっとしている迅に追い打ちをかけてしまっては可哀想だと憐憫の情が湧き、侑斗は黙って引き下がることにしたのだった―――


「へえ。迅ってば、そんなに宇宙と交信したいなら僕もお手伝いするのに」
翔太は眉尻を下げながら水くさいなぁと零したのち、そうじゃなくてと自身に突っ込みを入れて、
「週末は、僕たちと一緒に天候観測隊の活動に参加してたよ」
と付け加えた。だよなあ、と侑斗が頷く。
「何も迅に変なことなんて無かっただろ?」
「特に無かったと思うけど…」
翔太と侑斗はうーん、と揃って首を傾げて唸っていた。
「なに首回りのストレッチなんかしてんのよ。痛めた?」
そこへ、いちご牛乳のパック―――ここ最近いつも飲んでいるように見えるが、好きなのだろうか―――を片手に麻望が現れた。
「首は凝ってないよ。白和泉さん、藪から棒で申し訳ないけど、週末の迅に何かおかしいところはなかった?」
早速翔太が問うてみる。
「週末の迅?ホントに藪から棒ね。まあいいわ、ええと…」
麻望は悪態をつきつつ、時系列に従って記憶を辿り始めた。
「まずは…集合したとき。エドと一緒だったわね」
記憶は晴天の公園の入り口に遡る。迅は自転車を押しながら、徒歩のエドに速度を合わせて現れた。エドと道中で出会ったと話していた。
「それから観測データを記録して、バドミントンを始めて…」
麻望はエミリーと木陰から傍観していただけに過ぎないが、迅は翔太とエドと共に気温や湿度など諸々の数値を記録した後、何故か話の流れでバドミントンに興じ始めた。
「ああ、灼鷹の友達に会ってたわね」
「颯人か。迅に会ったって、その日にあいつから連絡が来たよ」
そこへ灼鷹生の颯人が現れた。以前の迅は颯人とちょっとした口論になっていたが、先日は仲睦まじい様子で、特に彼の悩みの種になるような出会いではなかったように見えた。侑斗に報告するくらいには嬉しいイベントだったのかもしれない。
「で、みんなでお昼に行った…」
「うん…」
麻望と翔太はそこで顔を見合わせる。そして、
「ああっ!」
ほとんど同時に声を上げた。侑斗は何のことだと言わんばかりに二人を交互に見ていることしかできず、置いてけぼりを食らっている。
「迅、なんか、水ばっかり飲んでたね!」
「そうよ!その上、辛いものが食べたいなんて言って、たくさんタバスコかけたりして…」
「で、口が痛い!暑い!って叫んでた」
「迅、辛いもの苦手って言ってなかったかしら」
「そんな気がする。なのに、ナポリタンにたくさんタバスコかけてたんだ…」
麻望と翔太は、侑斗の方へ向き直り、
「変だったわ!」
「変だったよ!」
と、まとめた。


--
「ぶぇっくし!」
かたや職員室に一人訪れていた迅は、大きなくしゃみをかました。鼻風邪でもこじらせたのだろうか、らしくもない、と年中健康体の彼は首を傾げながら、生徒向けの掲示板を確認していた。何か部員たちへの伝達事項は無かったかと、部長としての務めを果たすべく。

・第67回文化祭:慧星祭参加団体募集のお知らせ
・十月グラウンド使用団体
・【注意喚起】雨天時の校舎内でのトレーニング行為について
・吹奏楽部定期演奏会のお知らせ(チケットが数枚、ホチキス留めされている)
・十月体育館清掃当番表
……

―――貴様はお嬢の笑顔を見たことがあるんだな。

貼り付けられた白いプリント類の波の中に、エドワードの不快感にまみれた表情が浮かび上がってくる。迅は人目も憚らずに頭をぶんぶんと左右に振って幻聴を追い払おうと試みたが、声が聞こえなくなる代わりに掲示板の情報が頭に入ってこなくなった。
琉晴生リサーチ狂・杉本の牙城である職員室で『俺は今悩み事で頭がいっぱいです』というポーズをあからさまに取るなど、愚の骨頂だ。見つかったらひとたまりもない、と迅は背後を窺ったが、幸いにもデスクの群れの中に杉本の姿はなかった。
鬼の居ぬ間にとしばらく掲示物と睨めっこをしてみたが、やはりこんがらがった脳では掲示板の言葉をまともに取り込めなかった。迅は携帯端末で掲示物の写真を撮ってしまうと、職員室を後にした。ああ、最初からそうすれば良かったのだ。

職員室の掲示板など授業の間の休み時間にでも覗けば良かったものをわざわざ昼休みに訪れたということは、身を隠す安住の地を無意識のうちに探っていたのだろう。現に迅はD組には戻らず、下級生で賑わっている一階の廊下を人々の間を縫うように足早に歩き始めた。

迅は隠し事をしたことがなかった。それゆえ、隠し事が露わになったときの冷や汗が出るような焦燥感など体験したことがなかった。赤点のテストが返却されたとして、彼は自室の机の引き出しに隠してしまったりせず両親にさらけ出してしまい、隠し事として認識する前に処理してしまう。しかし大っぴらに広める気にならない出来事ともなれば、厳重に鍵をかけた上で彼の脳に保存されてしまう。それが他者によって覗かれたりなどすれば、鍵をかけてから経過した時間の分だけ相応の焦燥感が返ってきてしまうのだ。
あの日エドに問いかけられて味わった極大の焦燥感の訪れと共に、エミリーと自分の間に大きな秘密があるのだと迅は初めて自覚した。
麻望や翔太、そして当事者であるエミリーにはおかしなところこそ見せてしまったが、幸いにもそのわけまでは悟られていないようだった。取り敢えずは自分の気持ちをきちんと落ち着けて、あの日は変だったけれども何かあったのなどと聞かれた場合に適当な理由をこじつければ良いかと迅は考えていた。そのためにはまず気持ちを落ち着ける時間を確保すべく、気持ちの昂ぶる場所や人に近付かないことだ―――

校舎中を歩き回って、気が付けば図書室の前まで来ていた。理由はそれぞれ違えど、迅と同じように昼休みの喧噪から逃れようと流れついた生徒たちも恐らく居るのだろう。それこそ、春の頃に本を読みながら一人微笑んでいたエミリーのような……
「…うぐ……」
とてもではないが、今の迅にはその扉を開けて中に逃げ込む気は起きなかった。何故なら図書室もまた、迅の秘密に関わる場所だからだ。彼は中を覗き込みたいような、覗き込みたくないような曖昧な心地のまま、その場を立ち去った。


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「ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた―――」

砂の海原を駆ける短距離走の神童といえど、教室に閉じ込められてしまえば単なる教室の構成要素だ。黒羽迅はコンクリートの壁を四方に囲まれた部屋で、机と椅子と時間割の間に挟まれながら、無為に時間を過ごすだけの木偶人形となってしまった。いや、本当に木偶人形ならば良かったものを、彼は一丁前に感情を持ってしまった木偶人形だった。教壇の上から垂れ流される有り難い教えを耳に入れることも叶わないまま、ただ自分の荒ぶる精神と戦い続けるほかない、言わば哀れな感情の奴隷だった。
美しい思い出は、幾度見返しても美しいものだった。来客の訪れに備えて慌てふためきながら部屋を掃除している最中、押し入れの中へと片付けるつもりが結局読み始めてしまう読み古したお気に入りの漫画本のように、美しい思い出は幾度指でなぞって指紋を纏ったとしても煌めきを損なわない。
あれは夏の夜のことだった―――迅は、今日の日付だけ書いた白紙のノートに芯すら出していないシャープペンシルをコンパスのようにトン、と落として、思い出の航海へと誘われた。

迅が中学生の頃に頻繁に通っていた砂浜に、あの夜エミリーが訪れた。夜風にブロンドの髪をさらさらと撫でられながら、彼女はやって来た。後でエミリーの爺やに聞いた話だが、あの場所は日本に越してきたばかりの彼女が足繁く通っていた場所だという。それならば一度くらいあの場所でエンカウントしていそうなものだが、少なくとも迅の側にそんな都合の良い記憶は無かった。だって、たった一度きりあの場所で出会っただけで、夜の黒くうねる海と暗がりに浮かんだエミリーの白い陶磁器のような肌のコントラストが網膜に焼き付いて離れないのだ。もし出会っていたなら、その美しい光景を忘れてしまうはずがない。
あまつさえ、美しい少女は微笑んだ。彼女は人知れず花開いた月下美人のように、或いは地球の水を手繰る月のように、穏やかに優しく青く微笑んだのだ。
すごく、綺麗だった。言葉にするのも憚られるほどに―――

トントン。

「迅君」
隣の席のエミリーが、小声で呼びかけながら迅の肩を叩き、教科書に印刷された文章の段落を細い指で指し示している。質問でもあるのだろうか。それよりも、
「……え、なに…」
彼女のガラス玉のような生気の宿らない、しかし魅惑的な澄んだ青い瞳が、迅の瞳を真っ直ぐに捉えて離さないことの方が、よっぽど質問に値する出来事だった。ぐっと、カメラの大きなレンズを捻り、手動でピントを合わせたファインダー越しの風景のように、教室がぼやけてゆく代わりにエミリーだけが、エミリーの瞳だけが境界を鮮やかにして、背景から切り取られてゆく。そのエミリーは目を見開いた迅を見て不思議そうに首を傾げると、
「迅君の音読の番です。此処からですよ」
手間だろうに、もう一度そう呼びかけたのだ。迅はそこでようやく青い瞳から解放されたのち、全てを理解し、
「あ、ハイ!すんません」
と、火照りそうになる頬を手で扇ぎながら椅子を押し蹴って立ち上がると、エミリーに指された段落から教科書の文章を声に出して読み上げ始めた。
「雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと……い?云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、―――」


「迅君が授業中に考え事とは、珍しいですね」
現代文の授業が終わってしまうと、ホームルームの訪れに騒がしくなり始めた教室で、エミリーは迅に声をかけた。迅は弾かれたように彼女を振り返ると、ちらりとその瞳の青を見つめてしまいそうになり、思わず目を逸らしてしまいながら、きまりが悪そうに髪をぐしゃぐしゃと掻き始めた。
「ちょっとぼうっとしてたんだ…」
ははは、と苦笑い。とてもじゃないが、隣に座るエミリーについて考えを巡らせていたなんて気色が悪くて言えたものではない。感情の起伏がほとんど見受けられない彼女だが、喜びや悲しみが密やかに胸の内に煌めいているのだとあの夜に知ってしまったからこそ、徒に言ってはいけないことだってあるのだ。
「ゲンダイブンは非常に難解なので、宜しければ、私にアレコレ教えて頂けないかと思っていたところなのですが。如何でしょう」
と、エミリーは喧噪の中で迅に問いかけた。
「ああ、なるほどな。もちろ………」
ついいつもの癖で二つ返事で承諾しそうになったが、迅の脳がちょっと待って、とドクターストップならぬブレインストップをかけた。

―――現代文は難解なのでと困っているエミリーにつきっきりであれこれ教える…エミリーその人のことでメチャクチャに頭を悩ませている俺が!?

「ダメダメ、絶対ダメ!」
首が取れてしまうような勢いで、迅は首を横に振った。あらどうして、とエミリーは小さく零したが、迅ははっと目を見開くと、慌てて言葉を紡ぐ。
「お、俺、現代文が苦手なんだよ!だからさ…間違ったこと教えちゃっても困るし…」
あー、あー、と、迅は体育の授業中かと見まごう勢いで手足をじたばたさせながら必死になって弁解したが、エミリーは首を傾げている。
「てかむしろ、今さっきの授業内容、何も聞けてないし…俺から教わるのは得策じゃないんじゃないか?俺も翔太に聞こうかな~なんてな…」
恐ろしいほどに言い訳が思いつかず、思わず苦笑いしてしまいながら苦し紛れの嘘を吐いた。エミリーはしばらく言葉を発さぬまま迅のことを見つめていたが、口元に手をやると、
「…確かに。では、私の疑問は天候観測隊の皆さんと共有させて頂くことにしましょう」
と、心なしかボリュームの少ない声でもって答え、うん、と頷いた。しかし、
「ああ、迅君はしばらく陸上部に参加されるのでしたね。いつでも構いませんから、疑問をぶつけ合いましょうね」
と、胸の前で軽く握り拳を作って、続けた。
「お、おう」
迅は同じように握り拳を作りながら相変わらず苦笑いしているだけだったが、内心とても安堵していた。今の自分にとってエミリーとの必要以上の関わりは刺激が強すぎる。純粋な気持ちで誘ってくれたエミリーには申し訳なかったが、折れてくれたことには感謝してもしきれない。どうしてですか何故ですかと根掘り葉掘り聞かれてしまっては確実にボロが出てしまう。そうしたらいよいよ彼女と二度と正常なコミュニケーションが取れなくなってしまうと怯えていたからだ。
「たまには放課後の活動にも顔出すようにするよ」
守る気のない約束を吐き、自分で言っておきながら迅はその中身の薄さに嫌気が差したが、
「ええ、是非。楽しみに待っています」
エミリーの返答もまた、どんな思いが込められているかも推し量れないが、希薄で寂しい無機質な声でもってなされた。
その淡泊さに迅は、申し訳ないと思いながらも、どこか救われたような心地がした。

20:13
『遅くにごめんね

出し物の内容は、簡易プラネタリウムに決定しました!
準備のための買い出しのスケジュールを立てるので、
都合の良い日程を回答してね~

【文化祭買い出し日程調査】』

夕飯を食べて居間のダイニングテーブルでくつろいでいると、翔太から、天候観測隊のメンバー全員に向けてメッセージが送信されてきた。出し物の内容が無事に決定したようだ。

『今日は参加できなくてごめん、
調整ありがとう』

迅はメッセージを送信して、日程調査には回答せずに携帯端末をテーブルの上に放ってしまった。
ずっとその画面を見つめていると、見えない相手が自分のことを画面越しに見つめているような気がして気が気でなかった。もしエミリーが画面の向こうで自分がメッセージを送信した瞬間を目の当たりにしていたらとか、エドが舌打ちをしているかもとか、あらぬことを考えてしまう。その正体の掴めない不安を抱えるくらいなら、携帯端末など触らない方がましだとさえ思っていた。
「ふんふんふ~」
かたや風呂から上がった彼の姉:黒羽薫は寝間着姿でソファに腰掛け、鼻歌を歌いながらかれこれ1時間以上は携帯端末を操作していた。薫は大学進学とともに実家を出てゆき、キャンパスの近くで一人暮らしを始めた。今は夏季休暇の真っ只中で、実家に帰省している。迅も柔らかいソファに腰掛けたかったが、薫に追い出されてしまった。姉による幼少期から続く絶対王政が、彼女が大学に進学して随分経つにも関わらず未だに罷り通っている。
「よくそんなに見るものがあるな」
携帯端末を弄るのが苦手な迅には不思議でならなかった。とはいえ、迅はその時間をテレビから垂れ流されているバラエティ番組を浴びて過ごしているだけなので、大した差など無いのかも知れないが。
「別に、連絡取ってるだけだよ」
薫は鼻歌を中断し、答えた。
迅も先のようにメッセージアプリでやりとりこそすれど、たとえば侑斗が不定期で何処の誰とも知らぬ女の子や女優の写真を送ってきて、『うおおおお!』『この子めっちゃ可愛い!』『おい!日本男児!可愛い子を見たら可愛いと言うのが鉄の掟だ!』などと気色悪いメッセージを乱打したり、翔太が今週の部活動の活動予定を投稿するなど、一方的にメッセージを受け取っているだけであまり迅の側から自発的に話しかけることはない。そういえば、エミリーもあまり連絡はしてこない。直近のやりとりといえば、夏に彼女の側から誤って電話がかかってきたくらいか。
「相手もすごいな」
迅はテーブルに肘をついて、感心したように相槌を打つ。明るく奔放な薫のことだ、友人も多いのだろうし、相当話の面白い人間に恵まれているのかもしれない―――
「彼氏だからねえ」
しかし次の瞬間に、薫は、淡々とそう述べたのだった。え、何だって、カレシ?
「……かっ、」
あまりの衝撃で、声が上手く出なかった。迅は咳払いをして、
「彼氏!?姉ちゃん、付き合ってたの!?」
と、改めて驚きの声を発した。そだよ~、と薫は対照的に間延びした声で返すだけだった。
薫は高校の頃までは黒羽家に居たが、彼女の浮いた話など一度も聞いたことがない。隠し事だなんて水くさいと思ったが、よく考えないでも、迅の側も今悩んでいることなどわざわざ姉には話したことがない。
「え…い、いつから?」
迅は麦茶の半分残ったコップを握りしめながら問うた。一体何を緊張しているのだろう。短距離走の記録会のスタート直前だって、今よりもう少しマシな状態だろう。思わず手を伸ばしたコップの表面は結露していて、しっかり力を入れていなければ取り落としてしまいそうだった。その衝撃からか、突如、カラン、と麦茶の中で溶けかかった氷塊が音を立て、情けないことに迅は肩をびくつかせてしまった。
「高校の頃からだよ。……あれ?もしかして私、迅に話したことないのか。そりゃ失敬」
人知れず過緊張に陥る迅を尻目に、ははは、と薫は笑い飛ばすだけだった。彼女にとって、恋人が居るという事実を他人に打ち明けることなど、最早どうということはないのだろうか。言い慣れているという様子だった。やはり姉は、自分より一歩も二歩も先を行っていた。昔からそうだ。いつも出し抜かれる。一体どうやったらこの女に勝てるんだ。
「迅はどうなのさ」
どうやって姉を打ち負かすかと迅は惑う頭で考え始めていたが、思わず、は?という間抜けな声を口から漏らしてしまった。薫が自分を標的に定めたからだ。突如として真っ直ぐ自分の方へ向けられた銃口に戸惑う。
薫の方を見遣ったが、彼女はまるで大好物の肉塊を目の当たりにした犬のように煌めいた瞳で此方を見ていた。獲物同然の立場である迅は悟った。このままではとても面倒なことになる。これは、大変、まずい。
「どうって何が…わけ分かんねえ」
適当に取り繕いながら、自室に籠城すべく携帯端末を握りしめて居間を後にしようと立ち上がるが、
「おいおい何処行くんだ~?逃がさないぜ~!」
その扉の前に、姉が立ち塞がった。見事なインターセプトだ。彼女は陸上一筋だったはずだが、そのフットワークの軽さとコースの読みは、宛ら歴戦のサッカー選手のようだった。
薫は大層ご機嫌な様子で、腰に手を当てて悪戯っぽく笑いながら、迅に問うた。
「迅君!ぶっちゃけ!彼女はいますか?好きな女性はいますかー!」
ああ、彼女!ガールフレンド!愛する女性!薫の言葉を受け、どうにか上手く押し込んでいた迅の記憶、思考、その他それに紐ついた情報の全てが呆気なく解き放たれ、それを浴びた脳が再び熱暴走を始めた―――

―――迅君、貴方のお話というと、何か大切なお話だったのでしょうか?
―――僕はお嬢を愛しているからな。
―――迅君、何か大切なお話だったのでしょうか?
―――お嬢、愛しています。
―――迅君、何か大切なお話でも?

「あ――――――!」
「うわあ!?どうした!?」
近所迷惑だと叱られそうだったが、迅は既にありきたりな社会規範に構っている余裕がなかった。当然、狼狽している弟の可愛い顔でも拝んでやるか、くらいの軽い気持ちで悪戯を仕掛けた薫の側も大変面食らった。
「うわ―――!」
再び叫び声を上げ、進路に立ち塞がった薫の横すれすれを嵐のように駆け抜け、自室の方へとひた走って行ってしまった。まるで屋内とは思えない、フィールドでの速度と寸分違わぬ走りっぷりだった。
「うへー…申し訳ないことしちゃったな…」
薫はその走り去った方を見、後ろ髪をぐしゃぐしゃと掻いた。後ろめたいことがあった時、間の悪い時、迅がそうするように。


「あー、クソッ!」
迅は自室に駆け込むと、ベッドに転がり込み、縋るように携帯端末を手に取り、メッセージアプリを起動した。携帯端末で連絡を取るのが苦手な彼にしては稀有なことだった。
弾丸のような速さで文字を入力し、光の速度でメッセージを送信する。光の速度で送信されるのは、これまで人類が積み上げてきた技術革新の賜物であり、迅の手柄ではないのだが。とにかく迅は、光の速さで他者に縋らなければならないだけの精神状態だった。

To:仁井田 颯人

『急で申し訳ないんだけど
明日遊びに行かない?』

ピロン。意外なことに、すぐに返信が寄越された。

『OK
時間は任せる』